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「……くん、柴原くん」


 柔らかい声が、耳を打つ。優しく包み込まれるような声に、目が醒めるどころか、もう少し微睡んでいたい気さえした。


「……ふふ。柴原くん、起きてください。ね、もう放課後だよ」

「……っ!?」


 がば、と起きた先には、絡まった前髪の奥で、優しく目を微笑ませた未弥がいた。


「……なんだよ、起こせよあいつら……」


 何となく気まずくなって、先に帰ったらしい高幡たちに悪態を吐く。

 未弥はまたふふ、と笑った。

 そういえば、こんな風に穏やかに笑うところを見るのは初めてかもしれない。何となくまじまじと見る俺に、未弥は笑顔を口の端に残したまま説明した。


「私が頼んだんです。起こさせて欲しいって。何度も起こしたのに柴原くんったらなかなか起きないんだもん。寝顔、可愛かったなぁ……」

「…………」


 うっとりと陶酔したような顔で俺を見る未弥に、居心地の悪さが増す。



「……まぁ、ありがとう。で?何の用?」


 不機嫌に返すと、未弥の眉が下がった。


「……用事がないと、近づいちゃだめ、ですよね……私なんか」

「私『なんか』?」


 ぴくりと眉を寄せた俺に気づかず、未弥は真っ黒に沈んだ目で窓の外に目を向ける。


「あーあ……起こさなきゃよかったなぁ。あの時だけは、柴原くんは私のものだったのに。起こさなきゃ、一生、私だけの……」

「そんなの無理だろ。飲まず食わずで寝っぱなしって、永眠でもさせる気か?」


 呆れて端的に言うと、未弥の真っ黒な目がこちらを向いた。



 ぞくり、と背筋が震える。



「それも、いいなぁ」



 本気の混じった、泥に沈み込むような声に俺は慌てて口を開く。



「馬鹿。あんた俺をあんたのものにしたいとか言ってなかったか?それで良いのかよ」

「いいよ。だって、私が殺したら、永遠に私のものでしょ?」

「それが馬鹿だって言ってる。俺が死んだら遺体……というか遺骨は家族のものだし、家族でもなんでもないあんたのものにはならない。あんたは犯罪者で遺品を回収することも不可能だ。俺の家族はあんたに墓参りすら許さないだろうよ。あんたは馬鹿だから、完全犯罪も無理そうだ。それに、心とか言うなら尚更無理だろ。死んだ時点で心なんて無くなる。死んだら、俺は一生、あんたを見ることなんてない」



 がたん、と立ち上がる音に、俺は驚いて未弥を見上げる。



「じゃあ」


 透き通るほどに、真っ黒なその目が、揺れる。


「じゃあ、私は、どうしたらいいの?」


 湧き上がる感情を無理矢理押さえつけたような声を出され、刹那、言葉を失った。




 すぐに頭を回す。

 駄目だ、と思った。

 苦しげな未弥。真っ黒に、狂気に染まった瞳をした未弥。



 俺にしては珍しく、同情的な気持ちがむくむくと湧いて、だから―――



「じゃあ、俺のために、裸で校庭三周しろよ」


 

 ―――思い切り嘲笑した。



 目を見開いた未弥。黒い瞳が戸惑いに揺れ、悲しみに染まる。そして唇を噛み、さっと荷物を持って教室を駆け出て行った。


 俺は安堵の息を吐いた。

 流石の未弥も、ここまで言えば俺のことを嫌うだろう。

 未弥の気持ちは重過ぎる。第一、現実を見れていない。だから、これでいい。





 何故か胸を隙間風が通った気がして、慌てて口を大きく開く。

 空気を目一杯吸い込むと、自然にあくびが出た。






 視線を窓に向けると、丁度未弥が校舎を出るところだった。早い。思い切り走ったのか。

 肩を揺らしたまま膝に手を当てて息を整えている様子の未弥。


 ―――何故か、嫌な予感がした。



 俺は考えるより先に駆け出す。


 まさか、そんなはずはない。


 まさか。











 その、まさかだった。



 脱いだカーディガンがカバンの上に放り投げられている。


 震える手で、ゆっくりとシャツのボタンを外す未弥を認め、

 

 俺は手に持ったスリッパを思い切り投げた。



 ……新しい、来賓用のだから、多分綺麗だ。

 良い。俺がクズなのは今に始まったことじゃない。


 まさかの顔面にクリーンヒットしてしまったスリッパに、未弥は何が起こっているのかわからない様子で目をぱちぱちとしばたかせる。


 俺は外履きに履き替え、校舎を出た。


 やっと俺に気づき、さっと青ざめて再び脱ぎ始めようとする未弥の手をおさえる。



「……し、ばはら、く」


「……悪い。あんたの気持ち、ちょっと舐めてたわ」


 心臓がばくばくいっている。俺をここまで動揺させるとは、やるなこいつ。

 はあーーーと長く息を吐くと、未弥がおさえた手ごとびくりと震えた。


 未弥に着ていたブレザーを投げつけ、その場に座り込む。


「なんなの?あんた、まだ校舎に誰かいるかもとか考えないの?かもってか、確実にいるって。そう遅い時間でもないし、教師は残ってるでしょ。しかも本気で三周する気?教室から校庭までの短距離でぜーぜー言ってた女が?そんなん、途中でふらふらになって体力切れるし、見せつけてるようなもんじゃん。エロ親父共に見られて平気なの?変態?木に囲まれてるとはいえ、校庭のすぐ隣は道路だし、フェンス越しに通行人に丸見えだし。最悪、通報されるからね?そこまで考えての行動なわけ?」


 自分のことを棚に上げてべらべらとまくし立てる。実際、危機感が足りないとか、最早そういうレベルの問題じゃなかった。



「……どうでもいい」

「は?」

「どうでもいい。見られても、捕まっても、どうでもいい。それで、柴原くんが私のことを見てくれるなら。そしたら、見てくれるんだよね?」

「……あんた馬鹿だろ。いつ俺がそう言ったよ。俺は『俺のためにそうしろ』って言っただけ。てか、そんなんされて好意なんて持てるわけないだろ。ドン引きだわ」

「……っ!」



 ドサッ



「……っ、た……」

「どうしたら!」


 地面にぶつけ、痛む頭に悲痛な声が響く。

 それは、最早悲鳴だった。


「どうしたら!どうしたら!好きになってくれるの!?なんでもする、なんでもする、全部あげる。気にいらないとこは全部すてる。なんでも言うこと聞く。何してもいい。だから。だから!」


 長い髪が、俺の頭を覆うように地面に落ちる。

 ぎゅうぎゅうと俺の肩を掴む手はがくがくと震えていた。

 ぽたり、と頰に温かい水が落ちて、俺は呆然とした。



 激情が降ってくる。

 綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めて縋り付く姿は、この世で一番愚かで、醜くて、美しいもののような気がした。



「……なんで」


 ぽつり、と呟く。


「……なんで、俺なの」


 俺にしては珍しく、実にシンプルな質問がすべり出た。何かを考える頭の余裕はなく、ただ空白だけが脳みそを満たしていた。


 未弥は小さくすん、と鼻を鳴らして、小さな口を開く。


「あなたが助けてくれたんです」

「……俺が?」


 まさか。人違いだろう。鼻で笑う俺に、未弥は首を振る。


「痴漢です。中学のとき、何も言えないでいる私の代わりに、あなたが痴漢の男の人に文句を言ってくれて、駅員さんに事情を説明してくれました」

「痴漢……中学……ああ」


 思い当たる節はあった。ものすごくむしゃくしゃしていた時、丁度御誂え向きに言い負かせそうな、言い負かしても良さそうなおっさんがいて完膚なきまでに叩きのめしてやったのだ。ストレス発散して爽やかな気分で自分の功績を駅員に語って聞かせた覚えがある。被害者のことは、あまり覚えていなかった。


「でもあれは……」

「いいんです。理由なんてどうでも。ただ、私の人生で、私を助けてくれたのは、あなただけでした。どこへ行ってもいじめられて、誰も助けてくれなくて、ヒーローなんていないって思ってたのに、いたんです。私が初めて光に手を伸ばしたいって思えた。そのきっかけをくれたのがあなたなんです」

「それは……」


 ご愁傷様。運が悪かったね。

 そう思ったが、あまりにも嬉しそうに微笑むものだから、結局口を閉じた。


「私はいじめられっ子だから、あなたが私をいじめてしまうのは仕方ないです。それはあなたのせいじゃないです。でも……好きなんです。嫌かもしれないけど、もう、わがまま言ったりしないので、それだけ知ってて欲しいです。お願いします」

「……」


 俺はしばらく下げられた未弥の頭のつむじを眺めていた。

 ふと、思いついた。


「あのさぁ」

「!はいっ!」


 目を輝かせ、笑顔になる未弥。犬だったら尻尾を千切れんばかりに振っていそうな懐っこい笑顔だ。


「いじめられるって言って、あんたは自分のせいだって言ってるけど」

「はい……」

「まぁそりゃあんたのせいだわ」

「!」


 傷ついたように目を見開き、それでもぎゅ、と唇を噛んで耐える姿はいじらしい。俺はそんな彼女の両頬を片手でつかんでつぶした。

 むにゅ、と唇が突き出て変な顔になる。


「あのさ。あんただったら喉乾いて水が欲しいとき、嫌らしく笑うセールスマン風の男と優しく笑うおばあさん、どっちから貰うよ?」


 俺の唐突な質問に、未弥は戸惑いながらも真面目に答える。


「え……と……おばあさん……?」

「はずれ。それは詐欺師」


 不正解に未弥がショックを受けた顔をする。ちなみにどっちを答えようが不正解だ。正解不正解は俺が決めるから。


「なんで決めた?俺は笑い方と年齢や性別くらいしか言ってない。あんたはその二人の性格知ってるの?」

「……知らないです」

「だろ。人間ってのは馬鹿だから、見た目やイメージで他人のことを決めたがるんだ。セールスマンは怪しそう、おばあさんは優しそう、鬼は怖いし天使は純真、みたいにな」


 俺の言葉に、こくり、と未弥が頷く。


「で、だ。あんた、自分を客観視したことあるか?」

「自分……」

「そう。髪はボサボサ。顔は隠れてる。制服もぴっちりで野暮ったい。猫背。ぼそぼそ喋る。……いじめてくれって大声で叫んでるようなもんだぞ?」

「……」


 未弥は俺の存外無礼な言葉に、目をまん丸にした。


「せめて顔出せ。そういやうちの姉が美容師やってるっつってたから紹介してやるよ。制服は他の生徒見ろ。喋るのは難しくとも、クラスメイトに朝の挨拶くらいはしろ」

「あ……い……さつ……」

「おはようの四文字くらいは言えるだろ」

「でも、絶対答えてくれない……」

「『絶対』ぃ?」


 俺は眉を跳ねあげた。未弥が怯えた顔になる。


「あのな。何人いると思ってるんだ。十数人だぞ?十人十色というし、全員が全員同じ性格してるわけじゃないんだ。絶対なんてあるわけない。そもそも、答えてくれないのは今までだって同じじゃないのか?今更だろ。ゼロからそれ以上下がることなんてないんだから、プラスの可能性があるならそこに賭ければいい」


 正直顔を見せた状態なら男だったら簡単に挨拶を返すだろうが、媚びてると女からの反感を受けそうだし、諸々の事情から敢えて男を除外して十数人とする。本来クラスは30と幾人かで構成されている。その中の誰か一人でいいなら、挨拶を交わせる可能性はそんなに低くない。最悪高幡あたりが返事を返してやるだろう。


「でも、私は、柴原くん以外いらな……」

「未弥」


 びくり、と未弥の肩が跳ねる。

 今はまだ(・・・・)、未弥にとっての絶対は俺だ。


「服買いに行くから。うちの姉の都合ついたらそっちも行くぞ。駄目だったら明日。そんでその次の日に挨拶。分かった?」

「えっ、そ、それってデート……」

「あー定義はどうでもいいから。早く」


 それから未弥を引きずり、地味女改造計画が始まった。




―――




「変わるもんだな……」


 高幡がぽつりと溢す。

 俺は唐揚げを口に入れた。じゅわ、と肉汁が広がる。この学校の購買はなかなか良い唐揚げを作るな。


「まじかー……いや、知ってたけど、まじかー……」


 菅笠はずっとショックを受けたようにぶつぶつ言っている。


「なんでお前は冷静なんだよ。暢気に唐揚げ食ってる場合か!」


 不意に菅笠の怒りの矛先が俺に向き、唐揚げを一つ攫われる。

 俺はすぐに唐揚げ姫を救出し、魔王菅笠を成敗した。


「別に。元々あいつ懐っこい性格だし、慣れれば物怖じしない性質だろ。見た目さえ変えりゃ変わるもんだよ。ほら、形から入ることで上手く行くこともあるだろ?」


 二人の視線の先、話題の主役となっているのは坂本未弥だ。さっぱりと切った前髪を斜めに流し、焦げ茶に染めた肩までの髪は軽く巻いている。驚いたことに、軽く化粧までしているようだ。ほんのり桃色の唇が弧を描く。

 楽しそうに笑い声をあげ、近くの席の女子と話をする姿に、以前までの彼女の面影はない。真っ黒く沈んだ瞳には、光が灯っていた。




「……で、お前は良いのか?」


 高幡は俺の言葉にふぅんと相槌を打っていたかと思えば、確かめるように聞いてくる。


「何が?」


 コーヒー牛乳に刺したストローを咥えながら、俺は聞き返す。だいたい、話を始めるときは主語から示すべきだと常々思う。


「坂本だよ。ここんところ話してないだろ」

「あー……まぁ、良いんじゃない?成長成長。俺に付きまとってた時が、どう考えても異常だったろ。特に精神状態が」


 コーヒー牛乳って美味いよなぁ。子供の頃親父に連れられて行った銭湯のがまた、格別だった。


「……カッコつけやがって。クズのくせに」


 菅笠は恨めしげに唐揚げの入っていた袋を睨みながら呟いた。

 だからさ、論理的に筋道立てて話をしろよ。何言ってんのかさっぱりだ。



「まぁ、無駄だと思うけどな」


 ぽつり、と、無性に気になる言葉を一つ落として、高幡は弁当を片付けた。



―――




 放課後の中庭は、全体的に黄色い。空のオレンジ色のせいだろうが、何となく視界が悪くなった気がして苦手だ。


「ごめんなさい、呼び出して」


「いや」


 俺の目の前には、ちょっと可愛らしいだけの、普通の女の子が立っていた。


「で、何?」

「うん……」


 焦げ茶の髪が、光を纏ってオレンジに染まっている。


 逡巡するように視線を彷徨わせていた彼女――坂本未弥が、やがて真っ直ぐに俺を見た。


「あのね……ありがとう。また、柴原くんに助けられました」

「いや別に。自分のためだし」


 こうすれば未弥が俺から離れる。そう打算した結果だ。

 何を勘違いしたのか、俺を尊敬している風の未弥。そんなもの、他の人間と接すればすぐに目が醒める。そもそも俺に依存めいたものを向けたきっかけだって友達がいなかったからだろう。

 実際計画通りになって、かなりすっきりしている。


「で……ね、その。その……わ、私、どう、ですか?」


「どうって?」


「その……髪型とか変えて、お化粧とかもして……変じゃないですか?あの、客観的な意見がほしくて」


 なるほど、と思った。まだ自信が無いのだろう。眉を下げる顔は見慣れたもので、なんとなくまた詭弁で心を折りたくなったが、結局やめることにした。

 はじめに未弥の見た目を変えたのは俺だし、まぁ、最後まで責任を取ってやるべきだろう。

 餞別だ。多くの言葉は必要ない。





「可愛いよ」


 目を見開く未弥。



 ぽかんと口を開ける間抜けな顔に、俺はそっと微笑みかけ―――




「言った!言ったね!聞いたよ!録音()ったよ!言質とった!!!」




 ―――た頬が引き攣った。




「はぁ!?」

「ふ、ふふふ!言ったよね。可愛いって言ったね?つまり私は柴原くん好みなんだよね?

 クラスの人たちと話して、性格悪くないって言われたし、性格も見た目も大丈夫なら良いよね?可愛いって言うならもう好きってことだよね?好きなら付き合っても良いよね?両思いだよね!?」

「は、ちょ……」

「柴原くんはいつも私に言葉の大切さを教えてくれたよね。お陰で私も学んだよ!ちゃんと録音したし、柴原くんの美声は毎日毎晩毎朝毎昼1分単位で繰り返し聞くよ!まだまだ駄目な私だけど、柴原くんのお陰で柴原くん好みになれたし、これからも頑張って頑張って性格も変えるから、心配しないでね!」


 かっと見開いてぺらぺらと言い募るその瞳は、瞳孔が開いて真っ黒に染まっていた。


「柴原くんは私がいなくても平気だろうけど、私は柴原くんがいないともう駄目なの。幾らでも馬鹿にしても説教しても良いから、離れないで。他の人と話してても足りないの。迷惑かけたくなくて話しかけなかったけどもう無理なの。あのタカハタとかスゲガサとかと楽しそうに話してコーヒー牛乳飲んでる柴原くんが辛いの。他の奴ら全部塗り潰して消したい。コーヒー牛乳になりたい。好き。好き好き好きすきすき!」


 完全に狂気に染まった顔で笑いながら、実質初となる愛の告白を叫ぶ未弥。一度言ったら止まらなくなったのか、「すきすきすきすき」とぶつぶつ呟いている。


 俺はドン引きしていた。もうどうしようもないな。これは病気確定だ。見た目が変わろうが、人の本質は変わらないらしい。



 俺は一つため息を吐いて、


「あのさぁ、塗り潰すって何。コーヒー牛乳になるとか物理的に無理だから。そもそも俺は容姿は褒めたけど―――」


 学んだらしい未弥の、まだまだ穴だらけな言葉を一つ一つ潰していく。




 知らず、俺は笑っていた。


 もしかすると、この女の精神状態が少しはマシになる時が来るかもしれない。例えば、このままずっと、長く、それこそ年老いてからも、その滅茶苦茶な理屈を屁理屈でやり込め続けたら。


 もしそうなら、俺のこのよく回る口が、彼女に二文字を贈る日もそう遠くはないのかもしれない。







二人とも改心はしません

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