God only knows Town(5)
緊張した面持ちで、二人並んだまま階段をのぼっていく。さっきから心臓は踊るように跳ね、背中にはじんわりと冷たい汗が浮いていた。
ひょっとすると死刑執行場へ向かう死刑囚っていうのはこんな気持ちなのかもしれない、僕はそんなことを思いながら、階段の最後の一段をのぼりきった。
目の前にはホテルの最上階にある支配人室。もしも噂が本当だとしたら、この部屋の中に神様がいることになる。どんな願いごとも叶えてくれる神様、いや、それは僕らの命を奪う悪魔かもしれない。
僕とアナは凝った装飾のされた両開きの扉の前に立つと、お互い顔を見合わせて頷き合い、二人でその扉を開けた。
赤っぽい絨毯が目に入った、そのまま視線を上げていくと部屋の奥には焦げ茶色をした重厚感のある机があった。机の上には書類がいくつかの山になって積まれ、そのうちの一つは雪崩をおこしていた。どうも神様っていうのは大雑把な性格のようだ。
僕とアナはゆっくりと部屋の中に入るけど、部屋を覗いたときに気づいたとおり、そこには誰の姿もないようだった。
「誰もいないみたいだ。自分で呼び出しといて、随分と失礼な神様だな」
「神様……でも神様なんて本当にいるのかな? 今さらだけど、私、どうしても……」
アナがつぶやいた瞬間だった。
「……!!」
不意に僕の肩にぽんと手が置かれ、僕は声も出せずに飛び上がって驚いてしまう。横でアナも同じような反応をしているところを見ると、彼女も同じように肩に手に触れられたようだ。
僕とアナは同時に振り返り、「あッ!」と大きな声を出した。
黒っぽいスーツに赤いスカーフ、その男は僕にこの街のことを教えてくれたタカハシだった。どうして彼がここに?
それにしても、アナも声を上げたところを見ると、アナもどこかで彼に会っていたのだろうか。
「アナもこの人のこと知ってるの?」
小声で尋ねると、アナは小さく頷きながら、
「彼はミヤザワさんよ、私たちがこの街にやってきた日に、この街のことやこの街にまつわる噂話をしてくれた」
彼はタカハシさんのはずじゃ……ひょっとして彼は僕に嘘をついたのか?
僕がけげんな視線を向けていると、そんな視線を気にすることもなく、彼は相変わらずのひょうひょうとした調子で語りはじめた。
「ついにこの日がやってきたね! 君たちの順番が来るのを、私は今日か今日かと待ち続けていたんだ。言っていなかったけど、願いを叶えてあげる人間は厳正なる抽選で決めているからね、思ったより時間がかかったんだ。でも君たちが同時に選ばれたのは偶然じゃない、私が必要と判断したからだ」
タカハシは大げさに両手を広げながら、口の周りにしわを寄せて宣言するみたいに言った。
「あなたはタカハシさんじゃないの? この街の住人じゃなかったの?」
「タカハシ? 誰だいそれは、私は神様だよ」
タカハシはなんでもないように言って、僕らを追い越して赤い絨毯の上を歩くと、部屋の奥の椅子にどすんと腰掛けた。
「どうして私たちの順番が来るのが楽しみだったんですか?」
さすがの適応力で、アナはためらいもせずに神様を名乗る男に向かって聞いた。いくつも気になることはあったけど、僕は諦めてアナの質問の答えを待った。
「君たちの話はよく聞いているからね」
「いったい誰から?」
「君たちがこれまでに通ってきた街の町長たちだよ。モリカワ・イサオ君はぬいぐるみの街、被害者の街、少数決の街を。アサノ・アナさんは貧乏人の街、怠惰者の街、少数決の街を通ってこの街にやってきただろう? それぞれの街の町長が、君たちの事を私に報告してくれているよ。彼らに街を与えたのは私だから、当然そのくらいはしてもらわないと。もちろんアサノ・アナさんが不正をして、他人の切符を使ってこの街に来たことも知っている。僕が止めてなかったら、あの車掌に走っている電車から引きずり落とされているところさ」
「あなたは一体……」僕とアナはほとんど同時に言った。
「ただの神様だよ。不幸な人々を救いたい、お金持ちの神様さ」
タカハシはにやりという音がしそうな、いやらしい笑みを見せた。
僕は彼が神様じゃないにせよ、普通の人とは全く違う特別な人間であることを確信しかけていた。それでも彼のことを完全に信用するわけにはいかなかった。まず、僕は彼に聞いておかなければいけないことがあったんだ。
「タカハシさん。あなたは願いを叶えた後に僕らを殺すの?」
「そんな噂もあるようだが――というより真剣に願いを考えさせるために私が流すんだが――そんなことはない」その答えを聞いて、僕とアナは思わずふぅと息を吐き出す。だがそれは本当につかの間の安息だった。タカハシは続けて「二種類の人間を除いては」と言った。
「二種類の人間?」
「私が願いを叶えても幸福になれなかった人間と、私が願いを叶えてあげられない人間の二種類だ。私だって、意味のない願い事を叶え続けるようなお人好しじゃないし、死んだ人間を生き返らせるようなこともできない」
「じゃあ、もし死んだ人ともう一度会いたいって願ったとしたら?」
タカハシが何て答えるか分かっていたけど、僕はそう聞かずにはいられなかった。
「残念だが、私にその悲しみを消して幸福を与えることはできない。そう願った、どこにも居場所のない可愛そうな人間は、残念だが死ぬより他に救われる方法はないよ。そんな人間は世界ぜんたいの幸福のためには邪魔なだけさ」
「そんな……」
アナは右手で顔を覆ったまま、次の言葉も繋げないようだった。彼の言葉にショックを受けたのは、僕も同じだった。
「私だけが君たちの深い悲しみを知って、私だけが君たちの深い悲しみを理解してあげられる。そして私だけが君たちを深い悲しみから救い出して幸福を与えることができる。神様というものは、そのためだけに存在する。だけど私もすべての願いを叶えてあげられるわけじゃないし、すべての悲しみから救い出してあげられるわけじゃない。これは現実的に考えて仕方のないことだ」
彼はそう言うとひどく残念そうに肩をすくめてみせた。そんな仕草を見て、僕は心の底から恐ろしくなった。
タカハシは世界ぜんたいを幸福にしようとする、冗談みたいな人間だけど、どこまでも真剣なんだ。本気で深い悲しみから人々を救おうとして、本気でそれができないのなら殺してしまうのも仕方がないと考えているんだ。彼の狂信といっていいような考え方が、僕にはただ空恐ろしく感じられるのだった。
僕はタカハシに聞く。
「願いを叶えてもらった人はどうなるの? 彼らは殺されることはないんでしょう?」
「もちろん願いを叶えた人間を殺すようなことはしない。彼らは生まれ変わり、再び旅立つのだからね。さてそろそろ質問コーナーは終わりにして本題に入ろうか。昨晩、君たちの部屋に置いてあった紙は持ってきたかな?」
僕はポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出した。アナも同じように、ポケットから綺麗に四つ折りにした紙を取り出す。
昨晩、アナと夕食を食べて部屋に戻った僕は、丸机の上に置かれていたメモ帳大の紙を見つけた。部屋を出たときには無かったものだ。そこに書かれていたのはこんな文字だった。
『君の願いは?』
その下はすべて空白だった。僕は朝になるまで答えを考えて、その紙にペンを走らせたのだった。
二枚の紙を、タカハシはしばらく無言で眺めて、やがて重たい口を開いた。
「君たちの願い事について話をしよう。君たちの願い事は少し特殊なものだ。だから私には、正直なところその願いを叶えることによって君たちの悲しみが消え、幸福を与えることができるのか分からない」
僕とアナは黙ってタカハシの話を聞いていた。アナの左手が僕の右手に触れたと思うと、次の瞬間に僕の手はぎゅっとアナに握られていた。その力強さから、僕は初めて、アナがずっと僕の前で隠していたであろう不安を伺い知ることができた。
僕はぎゅっと彼女の手を握り締め、胸を張った。何があってもアナだけは守ろう、僕は改めてそう心に決めた。
「モリカワ君、君の願い事はなんだい?」
「アナを元の世界に戻してあげてほしい。僕はそれだけでいい」
「アサノさん、君の願い事は?」
「モリカワ君に元の世界に戻ってほしい」
僕はアナが何を言っているのかしばらく理解できなかった。僕に……元の世界に戻ってほしい?
アナの顔を見ると、アナはもう僕の顔を見つめていた。僕はきっとひどく間抜けな表情をしていただろうけど、アナはどういうわけか、目を糸みたいに細くして微笑んでいたんだ。
アナはひょっとしてこの冗談みたいな結末を感じ取っていたのだろうか。僕がああ願うと信じていた? まさか!
「君たちの願い事を叶えてあげることで、君たちの悲しみは消えるのかな……? 正直なところ、私にはそうは思えない。君たちは自分の意思で電車に乗ったはずだ、それがただ元の世界に戻ったところで何が変わる? また悲しみから、不幸から逃げ出してここじゃないどこかに行き着くだけだ」
言い終わった瞬間、タカハシは僕らを睨みつけるような表情をして、立ち上がった。
ひょっとして彼は僕らを殺そうとしているのだろうか。でもそうはさせない。
僕は息を大きく吸い込み、肺に満ちた酸素を吐き出すまでの短い間にひとつの大きな決断をした。
アナと元の世界に戻るんだ。まともじゃなくなった母さんの待つ世界へ、片腕が無いことを受け入れてくれない世界へ。
悲しみに満ちた世界へ戻って、深く傷つきながら暮らしていこう。一人なら、悲しみから逃げ出すことしかできないかもしれない。でも……
「二人なら悲しみにも立ち向かうことができる。僕らはただここにやってきて帰るだけじゃない。多くのものを手に入れて、世界に立ち向かって幸福を手に入れるために帰るんだ。邪魔をするなら、あなたにだって容赦はしない」
僕はアナの右手を強く握る。その小さい手はまるで太陽を飲み込んでいるみたいに熱くなっていた。
部屋に沈黙が満ち、やがて大きな拍手が支配人室を包んだ。映画の一場面のように、タカハシが手を大きく広げては胸の前で打ち鳴らしていた。
「よろしい。君たちの願い事を叶えよう。それで君たちが幸福になれるのなら」
「ほんとに!?」
「ああ。それと、さっき答えていない質問があったよね、願いを叶えた人間をどうするのか。その答えだけどね、願い事を叶えることによって悲しみの消えた人間は、元の世界に帰してあげるんだよ。だからまだ悲しみの消えていない、消えるかも分からない君たちは特別扱いということになる」
僕とアナは頷き、タカハシはそれを満足そうに確認してから続ける。
「もし君たちがまた耐え難い悲しみに襲われたときは二人でなんとかしなさい。それができないのなら死になさい」
その言葉を聞いた僕とアナはもう一度だけ顔を見合わせる。僕らにはただそれだけで良かった。
「僕らは死なないよ」
「ええ、私たちは絶対に死なない」
それは僕らの誓いだった。悲しみが消え去っても、そうならなくても、あのくだらない世界と戦い続けるという僕らの小さな誓いだ。




