God only knows Town(4)
下校の時間だ――。
僕は目を覚まして、まずそんなことを思った。起き上がり、首を回してようやくそこが学校でなくアナの部屋の部屋だということを思い出した。
だからもちろん、スピーカーから流れ始めたのは退屈な放送部員が流した校内放送なんかじゃない。そのアナウンスは神様によって願いを叶えてもらう人間の名前を告げるためのアナウンスだ。
アナウンスは二人の名前を告げた。その瞬間、僕の隣で寝ていたアナの目がパッと開いた。どうやらアナももう目を覚ましていたみたいだ。
「明日からシロサイの前にもシロユリの前にも彼らの姿は見れないのね」
二人の名前を聞いたアナはつぶやいた。名前を呼ばれたのは昨日結婚式を挙げたばかりの二人だった。
「知り合ったばかりだけど、少し寂しいね。あとは願い事を叶えてもらった彼らが二人で幸せな道を歩むことを祈るしかできないよ」
「……そうね」
僕とアナは話し合って、身支度を整えると、正午になる前に二人に会うためにホテルを出て公園へと向かった。神様に呼び出された正午になるまで、彼らはそこにいると思ったんだ。
シロサイの前にシロサイの男の姿はなかった。遅かったのか……と内心でどきどきしながらシロユリの前に行くと二人は手を繋いでシロユリを眺めていて、僕らがやって来たのに気づくと同時に軽く手を上げた。
「昨日はありがとうね。私たちにとって本当に特別で、かけがえのない体験をすることができたわ」
シロユリの男が言うと、シロサイの男もそれに同意するように何度か頷いた。そして何かを悟ったような表情で遠くを見ながら口を開いた。
「これで良かったのか僕には分からない。道徳とか正しい選択とか、昔から僕にはいまいちピンとこなかった。だけど確かに言えることは、僕は元いた世界にいるときには決して味わえなかった晴れやかな気分をしているっていうことだ。電車に乗るまで、僕はいつだって後ろめたい気持ちを抱えて過ごしていた。人と違う自分に生きる価値があるのか、ずっと悩み続けてきた。その感情をほんの一瞬でも忘れることができた、それは僕にとってとても価値のあることだった。ここに来たこと、そしてこれからのことも何も後悔はしていないよ」
僕は彼の言っていることがよく分かった。
逃げることは、立ち向かわないことは正しいことじゃないかもしれない。でも、だからといって間違ったことだというわけでもないんだ。彼は最後に、僕にそう教えてくれた。
僕らはシロユリの花の前で別れた。
彼らがどんな願い事をしたのか気になっていたけど、やっぱり聞くことはできなかった。それはとても個人的なことで、彼らの生き方の根幹に関わることなのだから。
それから一週間が経ち、僕とアナは毎日一緒に公園に出かけては、噴水の前のベンチに腰掛けたり、植物園のシロユリを見つめたり、新たに電車に乗ってやってきた乗客をぼんやりと眺めたりして過ごした。気持ちのいい風の吹く、よく晴れた一週間だった。
思えばこんな穏やかな気持ちで生活するのは、生まれて初めてのことかもしれない。
僕にはもう怖いものは何もなかった。何かに追われるということもなかった。僕はシロサイの男と同じように、ただやってくる時を待っているだけでよかった。
だって、この街では他にすることもない。こうしてアナと手を繋いでぼうっとしているくらいしか。
「なんだかホッとするわね」アナは言う。
「本当だね。信じられないくらいいい天気で、信じられないくらい心地いい感じだ」僕はそう答える。
「ふふ、何よ信じられないくらいって」
「こんなに穏やかでよく晴れた世界があったなんて、僕にはまだ信じられないんだ」
僕とアナの間を柔らかい風が通り抜けていき、僕らは同時に目を細めた。
「もし、もしずっとこの世界にいられるのなら、ユウはずっとここにいたいと思う?」
アナは僕の顔を下からのぞき込むようにして、真剣な表情でそう聞いた。彼女のそんな表情を見るのは久しぶりだった。
「……分からないよ。ずっとここにいたい気もするし、少し怖いとも思う。アナはどう思うのさ?」
「私はこの世界で暮らすうちに分かったの。この世界はとても穏やかで不幸のない世界だけど、それはひどく退屈で変化のない世界でもある。だからといって、私は決して元いた乱暴な世界に戻りたいとは思わなかった。結局のとこ、私もユウと同じでどちらかに決めることができなかったの」
アナはそこできらきらと音のするような笑みを僕に向けてから続ける。
「けどね、もし私のことを心から支えてくれる人間がいるのなら、私はこの世界を捨てて元いた世界に戻ることができるかもしれないって、今では思いだしているわ。なんていうか、一度あの乱暴な世界から飛び出して、外側から眺めて、妙に思い出すのよ。乱暴な人間たちに汚されて隠れていたけど、あそこには確かに人々の暖かみが存在して、弱くたってその暖かみを拠り所にして生きている人たちがたくさんいたなって」
「アナはきっと帰れる。もしやりたいことがあるならなんだってできるし、きっとアナを心から支えてくれる人が見つかるよ」
言いながら、僕は不意にこみ上げてきた涙をこらえるので精一杯だった。
できることなら、今すぐ彼女の手を取って、僕がアナを支えるんだって叫びたかった。でもそれは絶対に叶わない願い事だった。
「ふふ、もしも帰ることができたら、私は自分を犠牲にしてでも、私たちのように傷ついた人たちの力になりたいわ。最後に赤い切符に頼ってしまうことは悪いことじゃない、でもあの切符のことを思い出す人が一人でも減るように、私にできることは何だってやりたいと思う」
僕はそんな未来の彼女を想像して、ただ涙をこらえるので精一杯だった。
気持ちのいい風が二人の間を通り抜けていった。僕とアナが神様に名前を呼ばれたのは、その次の日のことだった。




