God only knows Town(3)
どこかで聞いたことのある音楽で目を覚ました。
その音楽は僕が通っていた中学校で、下校時間が過ぎるとたまに流れていたはずだ。なんとなく壮言で物悲しい雰囲気の音楽で、名前が新世界……ナントカだ。
寝ぼけたまま布団から起きだすと、すぐに音楽が止まった。次いで、部屋のどこかに設置されているスピーカーから放送が流れはじめた。
その内容は驚くべき内容に聞こえただろう、つい数週間前の僕ならば。
「本日、神様によって願いを叶えられるのは高遠良美様です。高遠良美様は本日正午に支配人室までお越しください」
女性のアナウンスがそれだけ告げると、どこかにあるスピーカーはまた同じ音楽を流しはじめた。目覚めの音楽なのだろうか。
「それにしても、本当に神様が願いを叶えてくれるのか」
僕は実際にその場面を見たわけでもないのに、そんなことを思って感動してしまう。だけど、同時にこうも思うのだった。名前を呼ばれたタカトオさんは、願いを叶えてもらった後はどうなってしまうのだろうか、と。
それはここで寝癖を立てたままの頭でいくら考えようと分かるはずのないことだった。僕は寝癖を直すと、服を着替えてアナとの待ち合わせの場所に向かった。
アナは少し時間に遅れてやってきた。アナはまだ化粧をしないようだから、単純に寝過ごしたのかもしれない。僕は彼女に朝の放送の内容を説明した。
「じゃあ、神様が願いを叶えてくれるっていう噂は本当なのかもね」
「なんとなくだけど、僕も嘘じゃないっていう気がするんだ。嘘をつくならもう少し本当っぽい嘘をつくだろうし、電車に乗ってからこれまで、嘘のような信じられないような出来事がいくつもあったけど、全部ほんとに起こったことだもん。きっと僕らもそのうち支配人室に呼ばれて願いを叶えてもらうんだ」
僕が言った言葉の意味を考えて、僕らはじっと押し黙ってしまう。
僕らはどうしても、願いを叶えてもらったその後のことを考えてしまうのだった。アナが聞いたという、願いを叶えてもらった人は殺されてしまうという噂を。
「そ、そんなことよりさ、今日は公園から伸びていた本の道がどこに伸びているか見に行ってみない? ホテルに向かう道の他にいくつかあったじゃん」
そんなことよりさ、で片付けられる問題じゃないんだけど、僕は重くなった空気を変えようとわざと明るく言った。街の東と西に、まだ行っていない道が一本ずつあったはずだ。
「そうね、時間もあることだし行ってみましょう」
「行こう行こう!」
僕らは公園を横切るように、まず東側の道に向けて歩き出した。広い公園には十人前後の人間がいて、やはりどこかぼんやりとして穏やかな時間を過ごしているようだった。
しばらく遊歩道に沿って歩くと、木々に囲まれた舗装されていない道に差し掛かった。この道がどこに続くか分からないけど、僕は到着する前にアナに聞きたいことがあったんだ。
タイミングを見計らいつつ、僕は少し歩く速度を落とした。
「……アナはさ、叶えてもらい願い事があるの?」
アナははにかむようにして一言だけ、「秘密よ」と。
さらに五分ほど歩くと、甲高い泣き声が聞こえてきた。獣臭さがすると思ったときには、僕らは動物園の前に立っていた。
「どうしてこんなところに動物園があるんだろう?」
「さぁ……でも凄いじゃない!」
僕の素朴な疑問もアナは特に興味がないようで、目を輝かせたアナは僕の手を引いてから入り口まで全力で走り出した。仕方なく、僕は何度も転びそうになりながら彼女を追いかけた。
鉄製の柵を隔てた向こう側には多くの動物たちがいた。
アジアゾウ、マレーバク、ニシローランドゴリラ、レッサーパンダ……アナはそれぞれを熱心に見つめ、鉄柵から手を伸ばしては動物たちの背中や頭を撫でていた。
動物の種類が多く、本当によく手入れされた動物園だった。アナほど動物好きじゃない僕も、そこにいるだけで段々と胸が熱くなってきたほどだ。
意外にも人はあまりおらず、シロサイの柵の前にたどり着くまで僕らは子供連れの母親とすれ違っただけだった。
シロサイの柵の前にいたのは三十過ぎの、小柄で肩まで髪を伸ばした男だった。彼はとても落ち込んだ様子で、シロサイがいる方向に虚ろな視線をやっていた。
「何かあったんですか? あなたはとても辛そうに見えるけど」
アナはほんの少しも迷う素振りを見せずに男に声をかけた。僕はそんなアナのことを素直に凄いと思う、僕にはとても真似できない。
「自分のことを考えていたんだ」男は言った。
「自分って、自分のこと?」僕は聞く。
「ここにやってきていることからも分かると思うけど、僕は社会に適応できなかった人間なんだ。そして社会に適応できなかった人間が暮らすためのいくつかの街にも適応できなかった。そんな僕が生きていける場所は、この世界にはどこを探してもないんだって、そう考えて落ち込んでいたんだ、結局は全て僕に問題があるせいなんだ」
「そんなことないわよ」
アナはとっさにそう言うけど、僕は男の言うとおりだと思った。
僕を含めたここにいる住人は、きっと皆そんな人間なんだ。死んだ方がいいとまではもちろん言わないけど、死ぬより他に方法がないような。この天の川銀河のどこを探しても居場所のないような……。
そんなことを考えると、僕は男と同じように、ひどく辛い気持ちになってくるのだった。可愛い女の子が隣にいるっていうのにさ。
「気を遣わなくていいよ。僕はただ、神様に自分の名前が呼ばれる日を今日か今日かと待つだけさ。だってこの街では、他にすることもないんだ。こうやって、子どもの頃好きだったシロサイを眺めているくらいしか」
男が子どものような、寂しそうな笑顔を見せるので、僕とアナは曖昧に別れの挨拶をしてその場を離れることしかできなかった。彼に掛けてあげることのできる言葉なんて、僕はひとつも持ち合わせてなかったんだ。それは同時に僕自身にかけるべき言葉なのだから。
時計を見ると正午を少し過ぎていた。僕はアナを誘って一度ホテルのレストランに戻ることにした。
黙ってナポリタンスパゲッティをすすった僕らは、今度は西側の道に向けて歩き出した。木々に囲まれた舗装された道が途切れ、ライ麦畑に囲まれた田舎道を十分ほど歩いて、僕とアナがたどり着いたのは植物園だった。
「今度は植物園か。いったいこの街はなんのために……」
「見て見て、あの花すごくきれい! あっちまで行ってみましょ」
まるで小さな子どもに戻ったように駆け出すアナの後ろで軽く肩をすくめて、僕はまた駆け出すのだった。
植物園に入ると、すぐに見渡す限りのマーガレットが植えられた大花壇が僕らを出迎えた。
その他にもバラ園やシャクヤク園、ツバキ園などに色とりどりの花が植えられていた。花壇はどれも段々になっていて、僕らは小高い丘を登るようにしてそれぞれの花壇を見て回った。
動物園と同じように人は多いとはいえなかったけれど、数少ない人間のうちの一人が僕らの目についた。
彼は三十過ぎの、すらりと背の高く欧米人のように鼻の高い男性で、ぼんやりとシロユリの花を眺める姿は僕に数時間前に話をしたシロサイの前の男のことを思い出させた。
「何かあったんですか? あなたもとても辛そうに見えるけど」アナはまるでそうすることが当然みたいに声をかける。
「彼のことを考えていたの」男は言った。
「彼のこと?」僕は聞く。
「あなたたちはもう動物園には行ったの?」
僕とアナを交互に見ながら彼が尋ねるので、僕らは同時に頷いた。
「動物園のシロサイの前に背の低い男がいたでしょう? 彼は私の恋人なのよ。でも彼ったら、もうとっくに済んだことや自分のことばかりを考えてていて、全然私のことを見てくれないのよね。過去のことを思い返すんじゃなくて、どう今を、そしてどう最期のときを迎えるかが重要なのに」
最後のとき……僕の胸にそんな言葉が突き刺さった。アナは僕の心の動揺も知らずに、男との会話を続けていた。
「あなたはどう最期のときを迎えたいと思っているの?」
「できることなら、私は彼と結婚したいと思っているわ。あの馬鹿みたいな世界では、それは叶わない願い事だったけど」彼はそう言って女性的に肩をすくめてみせた。
「その願い事はこの街の神様に叶えてもらえないの? この街の神様はどんな願い事でも叶えてくれるっていうわ」
「これは私と彼の問題でもあるしね」男は寂しげな笑みを浮かべて続けた。「それに私には他に叶えてもらいたい願い事があるの」
やがて男と別れチューリップ畑を歩いていると、アナは不意に立ち止まり、きらきらと音がするような笑顔で言った。
「彼らの結婚式を挙げてあげましょう! そのくらい神様じゃなくたって、私たちにだってできるはずよ」
僕は赤くなって頷きながら、同時に不思議でならなかった。
どうして彼は――そして彼女はごく当たり前のように自分の死を受け入れているのだろう。ひょっとして僕だけが、元の世界との繋がりを断ち切れていないんだろうか……。
「どうかした?」
アナが僕の顔を覗きこんで聞くけど、僕は首を振って笑いかけることしかできない。
それからホテルに戻ると、今度はアナにホテル中を引っ張りまわされた。まずレストランの厨房で小さなウェディングケーキを作ってもらうよう交渉して、何枚かの古いシーツを裂いてウェディングドレスを作って(アナは驚くほど裁縫がうまかった)、最後にレストランのステージの飾りつけが終えた頃には夕方になって、レストランにはちらほらと客が入りはじめていた。
レストランにやってきた客はほとんどがまずその飾り付けを見て驚き、垂れ幕に掛かった二人の男の名前を見て納得したような表情を見せ、もう一度飾り付けを見て苦笑いを浮かべた。シロサイの男とシロユリの男とのことは、この街の住人なら誰もが知っていることだったのだ。
まずシロサイの男が拍手に迎えられてレストランに入ってきて、すぐにシロユリの男が続いた。シロユリの男はレストランの飾りつけが自分たちのためにされていると知ると顔を覆って泣きはじめ、二人は拍手の中できつく抱き合った。
「余計なお世話かとも思ったんですけど……」
アナが言うとシロユリの男はぶんぶんと泣き顔を左右に振った。シロサイの男もその表情から喜んでいることがよく分かった。彼は昼とは別人のように気色が良くて、どこか吹っ切れたようでもあった。
アナが司会の真似事をして、僕がそれを手伝った。
シロサイの男とシロユリの男はケーキにナイフを入れてキスをした。得意な人たちで楽器を演奏して、残りの人たちが順番に歌を歌って彼らのことを祝福した。
彼らはお互いの顔を見て恥ずかしそうにしながら、いくつかの曲に聴き入っていた。
僕とアナは一緒に山崎まさよしの『セロリ』を歌った。下手くそな歌を歌いながら二人のことを見つめていると、僕は不意に泣き出してしまいそうな衝動にかられた。
「大切な人がいるっていうのは、とても素晴らしいことね。当たり前のことだけど」
歌い終わると、アナは僕の耳元でそう言った。
次の瞬間、胸が締め付けられるような心持ちがしたかと思うと、僕の目にはいっぱいの涙が溜まっていた。僕は慌ててアナから顔を逸らし、アナに泣き顔を見られなかったことを祈りながら、うつむき加減で結婚式の残りの時間を過ごさなければいけなかった。
結婚式は二時間ほどで終わり、僕とアナと何人かの従業員たちで片づけをした。
心底疲れ果てて、片づけを終えて部屋に戻った僕は、胸から全ての水分が零れ落ちてしまったような渇いた気持ちでベッドに腰掛けた。
「大切な人がいるっていうのは、とても素晴らしいことね」アナが言った言葉をなぞるように、僕はつぶやいた。
僕にとってアナはとても大切な人だ。アナと出会っていなければ、今ごろ僕はとても孤独な気分で、この街で意味のない時間を過ごしていただろう。ひょっとすると考えることをやめてしまって、全てを受け入れてやってくる時を待っていたかもしれない。
アナには心から感謝している、僕はアナの生き方、考え方、その全部が大好きだ。
それでも大切な人と聞いて僕が最初に思い描いたのは母さんの顔だった。今ごろ母さんは何をしているんだろうか? 部屋のベッドに腰掛けて窓から外を眺め、僕は一人そんなことを考える。
まともじゃなくなった母さんを一人置いてきたことに対して、僕が感じる罪悪感は日に日に大きくなっていた。母さんが僕(父さん)を必死になって探しているんじゃないかと考えて、夜中に一人震え出し、泣き出しそうになることだって何度もあった。
僕が母さんから受けた仕打ちを忘れることはできない。でも僕だってそれと同じくらい、いや、それよりももっとひどい仕打ちを母さんにしてしまったんだ!
考えまいとすればするほど、僕は一人になればそんなことを考えずにはいられなかった。母さんは僕のせいで愛する人に二度も裏切られることになったんだ。
僕はここでもうすぐ死んでしまうのかもしれない。それはもう構わない。でも残してきた母さんはこれからどうやって生きていくんだろうか……。
「ごめんなさい、母さん」僕は大切な人に向けて、つぶやかずにはいられない。
僕はもう二度と母さんに会うことはできないんだ。母さんはこれからずっと、一人ぼっちで生きていかなくちゃいけないんだ。
ごめんなさい、もう一度そうつぶやく僕の膝は小さく震えはじめていた。
一人で部屋にいるだけで、僕は目に見えない何かに押し潰されそうになる。ホテルという居心地の悪い空間に、僕は最後までどうしても慣れることができそうになかった。
でも、もう僕は一人じゃなかった。どうしても涙をこらえきれなくなった僕は、手で顔を覆うようにして、アナの部屋へ向かって歩いた。すれ違った誰かがじろじろと僕のことを見ていたけど、僕は顔を上げることもできなかった。
「……!」
僕の姿を見たアナは絶句し、それでもすぐに何かを察したように平静を取り戻すと、何も言わずに部屋に入れてくれた。
僕とアナは並んでベッドに腰掛けた。僕には自分が泣いていることを隠そうとする余裕もなかった。
「すごく……不安になるんだ。一人置いてきてしまった母さんのことを考えると」僕は不細工に鼻をすすりながら叫ぶように言った。
「仕方なかったのよ。あなたは耐え切れないほど辛い目にあったのだから」
アナは僕の肩に手を置き、指先でそっと僕の涙を拭った。
「分かってる。でも僕は、ここまで来てもう一度母さんに会いたいと思ってるんだ。そして一言だけでも謝りたい。でも、僕にはもうそれだけのことができないんだよ。ひょっとすると、僕はあの電車に乗ったこと自体後悔していたのかもしれない。そう思ってしまうほど、今は母さんが恋しい」
「モリカワ君……」
「僕は悲しみに満ちた社会に適応できなかったかもしれない、そこから逃げ出した後にたどり着いたいくつかの街にも。この天の川銀河のどこにも僕の居場所はないのかもしれない。だからといって僕は死にたくない、死んでしまいたくなんかないんだ! それが叶わなくても、せめてもう一度、もう一度だけ母さんに会いたい。母さん……」
僕はまたいつかみたいにアナにきつく抱きしめられる。アナの胸はとても温かくて、僕はひどく安心していくのが分かる。
「大丈夫、心配ないわ。心配ない、心配ない……」アナはくり返しそう言いながら、僕の頭を優しく撫でてくれた。
僕はもう泣いていなかった。ただぎゅうっと目をつむって、赤い切符を使った自分の決断が正しかったことを信じようとした。母さんに会えないのは仕方がないことだと、自分に無理に言い聞かせようとした。
「僕のことを笑わないでね、ただちょっと色んなことを考えすぎて悲しくなっただけなんだ。明日になれば、きっと何もかも忘れてるし、何も後悔なんてしてないよ」
「そうね、でも今日だけは、あなたの思ったことを言っていいのよ」
神様に名前を呼ばれるまであと何日だろうか。一刻も早く、覚悟を決めなければいけなかった。まだ中学生なのに、世界に見放された僕は覚悟を決めなくちゃいけなかった。
アナは僕の頭の上でずっと同じ言葉をくり返してくれている。まるで天使が子守唄を歌うみたいに。
そのせいで僕は眠たくなってくる。僕はアナにお礼を言いたいのに、もう一度目を開けることが難しくなってきて……




