Minority Town(7)
楽園という言葉を辞書で引いてみると、楽しみに満ちた場所。パラダイスという風に出てくる。
僕は退屈な授業中によく辞書で授業と関係ない言葉をひいては時間をつぶしていた。その中で取り立てて印象に残るような言葉でもなかったはずだけど、僕はそのことをよく覚えていた。
この場所は、僕が読んでいた国語辞典に言わせるとまだ楽園とは言い切れないんだろう。それでもその光景を目の当たりにした僕は、こここそが楽園じゃないかといった風に感じるのだった。
エレベーターに乗り込んだ後、僕は基内にひとつしかない▽のボタンを押した。
エレベーターは降下して地下一階で停止した。緩慢な動作で扉が開いた後に僕の目に飛び込んできたのは、きらきらと陽光を反射しながら空高く舞い上がる噴水と、その周りに咲き乱れたチューリップやコスモス、すみれといった色とりどりの花々、まるでペンキで色を塗ったみたいに突き上がる雲ひとつない水色の大空だった。噴水からは四方に道が伸びていて、そのひとつは傾斜してはるか遠くに見える海まで続いていた。宝石のように光っているエメラルドグリーンの海と金色の砂浜が目に痛くて、僕はとっさに目を細めてしまっていた。
エレベーターを降りた僕は口を開けたまま、今が夜だっていうことも、ここが地下だってことも忘れて、その楽園のような景色を呆然と眺めていた。
「違う。これは……」
何十秒間かそうした後にようやく、僕はそれが本物の空じゃないことに思い至った。
どうやら高い天井を空の色そっくりに塗って、そこにまるで自然に伸びたみたいな雲の絵を描いて、照明で照らしているようだ。遠くに輝く海も同じだ。視力の悪い人が裸眼でその空や海を見たら、本物の空と間違えて気づかないかもしれない。それほどに、そこにあるのは完璧に近い、楽園のようなよく晴れた日の空と海だった。
誰が何のためにこんな場所を……?
不審に思い周囲に気を配りながらも、僕は地下に隠された秘密の場所をほんの少し歩いてみた。
噴水やそこから伸びる道に沿っていくつか並んでいる建物が新しくて、それにすごく広いみたいだ。僕がまず感じたのはそんな感想だった。
その次に感じたのは、またもや、強烈な違和感だった。思えばこの街に来てから、こんなへんてこな気分を何度も味わっているような気がする。
道沿いに建てられた、まるでモデルルームのように真っ白い壁に赤い屋根の家々。よく手入れされ整列したポプラの木々。その空間を彩るカラフルな花々に、みずみずしい匂い。
そこはこうしてみる限り確かに幸せな空間のように思えたし、人の暮らしている気配があった。
でもそこには誰ひとりとして通りを歩く人間の姿はなくて、そのくせいくつもの強い視線を僕は全身に感じるのだった。僕の全身をねめつけるような、厭らしい視線だ。
目の前に広がる光景と街を覆う陰鬱とでもいうような雰囲気とのギャップが凄まじくて、僕はそこが今まで巡った街のどこよりも奇妙で居心地が悪い場所だと感じた。
「見つけてしまったんだね。まぁ別に隠していたわけじゃないけどさ。誰も来なかっただけで」
僕は声をかけられるまで、そこにいた小人の存在に気付くことができず、声が聞こえた瞬間に飛び上がってしまった。
「いつからそこに……」
彼はほとんど僕の足元といってもいいような場所から、僕を見上げるようにして立っていたんだ。
「珍しくお客さんが来たようだったから挨拶をしておこうと思ってね。君がここに入ってからずっと後ろをつけていたんだ」
小さな町長は悪びれる様子もなく、いやらしい笑みを浮かべて言った。ひょっとしてさっきの視線は彼から発せられたものだろうか。
この空間が何なのか分からないけど、ここを知った僕のことを彼はどうするだろう。まさか、僕もタカフミのように捕らわれてうんとひどい目に……。
僕は恐怖にとらわれて反射的に逃げ出そうとしたけど、なんとか思いとどまった。町長の体型は子どものようだ、逃げ出せば簡単に逃げ切ることができただろう。でも……。
驚きと不安から、背中には冷たい汗が浮かびはじめていたけど、僕はイケダのためにもタカフミのためにも、今ここから逃げ出すわけにはいかなかった。
「この場所は一体何なの? ここにタカフミは隠されているの?」小人を睨みつけるようにして、なんとか搾り出した僕の声はかすかに震えていた。
「知りたいなら教えてあげてもいいよ。でももしそうするなら、その前に君に見てもらいたい――というより会ってもらいたい人たちがいるんだ」
僕は迷いながらも頷く。だって、そうする他ない。
「みんな出てこいよ。心配しなくてもこの少年は、君たちを傷つけたりしない。そんな度胸も、根性も、勇気もない、ちっぽけな人間だ」
ひどく人を不愉快にさせるような言葉を受け、地下の街の家から、木の陰から、噴水の裏から、どうやって隠れていたんだと言いたくなるような場所から次々と街の人間たちが姿を現した、と同時に僕は、言葉を失ってしまう。
出てきた人間の中には、両手両足がなくて、こういう言い方はないって思うけど――まるで虫のように這って移動する人がいて、顔が熟れたトマトのように倍以上に赤く腫れた人がいて、身長が僕の倍はありそうなひどく体が大きく毛むくじゃらな人がいて、体中を硬いうろこのおようなもので覆われた人がいて、若い女性なのに裸で笑いながら走り回る人がいて、そのほかにも……。
混乱する僕のことなんて歯牙にもかけずに、町長は無遠慮に聞いてきた。
「彼らを見てさ、君はどう思った? 君は少数派の彼らのことを見てどんな風に感じた?」
僕はまるで現実的とは思えない、彼らの姿に強い衝撃を受けて頭がくらくらとしているところだった。それでも、急にそう問われた僕の頭にはひとつの言葉がよぎった。
『かわいそうだ』
でも彼らを目の前にして、僕はそんな言葉を口にすることはできなかった。僕はきつく口をつぐんだまま、彼の問いに答えるのを拒否した。
「かわいそうだと思っただろ? いや遠慮しなくていいんだ、ここでは差別だどうだと騒ぐ人もいないし、君は君が思ったとおりのことを言えばいいんだ。そう思ったからといって、君をひどい目に遭わせたりなんてしないよ」
まるで僕の心を読んだみたいな小人の言葉に動揺して、本心を隠すことを諦めた僕は遠慮がちに頷いた。
満足そうに頷いてから、小人はさらに続ける。
「悲惨な事件があったとき、ニュース番組で被害者のことを知っている人がインタビューを受けるのを見たことがあるかい? 可愛そうだ、とかまだ信じられない、とかいい人だったのに……とかお決まりの台詞しか言わないけど、彼女らが本当に思っているのはただひとつだけ、自分じゃなくて良かったってことさ。あの表情を見ていれば誰だって分かる」
「そんな、でも……」
「人々は他人のことをかわいそうと思うのだけは得意だ。だからといって私たちのために、他の誰かのために何かをしてくれるというわけでは絶対にない。いつだってかわいそうと思うだけ、時には自分より不幸な人間がいると、私たちのことを見て安心したりもする。だから私はこの街を作った。少数派の彼らのために、自分自身のために、私たちのほかに誰もいないこの楽園を作ったんだよ」
「ここが楽園だって?」
自分でそう思っていたにも関わらず、僕はそう言い返していた。あの時と今では、僕のこの場所に対する印象は大きく違ってしまっている。
辺りを見渡すと、楽園の住人たちはそれぞれに僕を睨んだり、哀れむような目で見たり、感情のこもらない瞳で見つめていたりした。
「そうさ、ひょっとしたら君もここに来たときは似たような感想を持ったんじゃないかな? 誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもない穏やかな楽園だよ。私から言わせればこの上の街で暮らす障がい者たちは、この地下の街で暮らすにはまだ足りない。体や心の一部が人とほんの少し違うだけの彼らは多くの部分でまだ甘えているし、地下の街に存在してはいけない強者を生むことに繋がる。だからこの地下の楽園の存在は知らないし、元の世界と比べて安寧なこの街で暮らすことに相応のリスクを持ってもらっている。それこそ……」
「セレクトベルでしょ」
僕がそう答えを返すと、小人は嬉しそうに口の端をつり上げた。
「そうさ、せっかくだから君に罰を与えるための条件を教えてあげよう。五回連続で、質問に多数派の意見を答えるとアウトだ。アウトになるとすぐにこの地下の楽園に住む彼らが、その人間のことを攫いに行く。彼らには楽園を提供するんだ、私のためにそのくらい働いてもらわなきゃね。でもさ、驚いたよ。まさかやって来たその日に五回連続で多数派の意見を押しちゃう人間が現れるなんてね。彼には軽い視覚障害があるようだが、考え方は多数派のようだ」
「お前、タカフミをどこに隠したんだよ!」町長の長いごたくに、僕は我慢できずに叫んでしまう。
僕の叫び声に小人の町長はこれといった反応を示さなかったけど、後ろにいる楽園の住人たちはひどく驚いた様子で、肩をびくりと震わせたり、物陰に隠れたりしていた。
「そう興奮するなよ、皆驚いているじゃないか。心配しなくてもすぐに会わせてやる。もちろんさ、君もあの子やその他の子たちと同じようにこの楽園の一室に監禁させてもらうけどね」
小人は笑い出してしまうのを必死でこらえてる、って感じに表情を醜く崩しながら、
「さぁ、彼を捕らえるんだ」
その一言に反応して、四肢が無かったり、うろこが生えていたりするこの楽園の住人たちは僕に向かってじりじりと距離を詰めはじめた。
僕は一瞬にして、自分が人生最大のピンチに陥っていることを理解した。
逃げ出そうと思うけど、さっきまで元気だったはずの足はすっかりすくんでしまって動かなかった。だってそうだろう?
例えば僕に向かってゆっくりと近づいてくる、蛙みたいに頭が低く陥没し、目がほとんど潰れてしまっている男性……こんな場面を誰が想像できるだろう。
僕は彼らに震える声をかける。だって、もう他にできることもない。
「あ、あなたたちは確かに人々に――僕たちに傷つけられたかもしれないよ。それは謝る。でもこんな男のいいなりになって、同じように人を傷つけるの!?」
彼らの動きは止まらない。僕の膝は激しく震えだした。
「僕はあなたたちの気持ちは分からない。想像することもできないよ。けどさ、それでもこんなの間違ってるよ! こんなことをすれば、ますます他の人との壁を大きくしちゃうだけだもん」
僕と彼らの距離は、もう二メートルもない。僕の目にはじんわりと涙が浮かんだ。
「まだ子どものタカフミをさ、一生ここに閉じ込めておくの? ひどい目にあわせるの!? あなたたちはそれでもにん……」
そこまで言ったところで、僕は言葉に詰まってしまう。
自分が言おうとしていた言葉に意味を、残酷さを考えて僕は愕然としてしまう。だがその言葉を聞いた彼らは僕にとって予想外の反応を見せた。
彼らの足は僕の言葉を聞いた瞬間にぴたりと止まったのだった。
「おいどうした、早くそいつを捕まえるんだ!」
はじめて見せる、慌てた様子の町長の怒声も、もはや彼らには届いていないみたいだった。
彼らは何度かお互いの顔をうかがうと、小人の町長の引き止める声も聞かずにそのままその場を立ち去り、家の中や通りの奥へと引っ込んでいってしまった。
「どうして、お前たち私の言うことを……?」
その場に残された、呆然とした表情の小人の町長、そして同様に理解が追いつかずに固まった僕。
だけど、先に気を取り戻したのはかろうじて僕のほうが早かった。
僕は手近な木に結んであった縄をほどくと、何が起こったか理解できないといった表情を浮かべたままの小人を縛って床の上に転がした。町長が抵抗をはじめた頃には、もう彼は身動きができない状態だった。
何かに観念したように、町長はもはや口を開くこともなかった。
楽園の住人がどうして僕を捕らえなかったのか、僕にはその理由が理解できなかった。それでも僕は、もう彼らのことをその見た目から受ける印象の通りに見ることはできそうになかった。
「ありがとう、ございました」
僕は家々に向けて頭を下げた。
もうここに入ったときのように厭らしい視線を感じることもなくなっていた。楽園の空はどこまでも澄み切って、ほんの少しだけど、僕はまだここに留まってここの住人たちのことをもっとよく知りたいと思っていた。




