初夜の儀式
「ミアを殺したのはイザヤ侍従ですと!?」
執務机の前にある応接机で、セミル大神官は皇太后と向かい合っていた。
「ええ。本人が告白したから間違いないわ」
「告白したですと!? では、何故それを隠蔽しておられるのですか!!」
皇太后は冷ややかにセミル大神官を見つめた。
「そもそも、隠蔽していたのはセミル大神官でしょう」
「何を……」
「内廷の侵入者がナタリーであったこと。私にだけは話すべきだったのよ。そうすれば、姪が不幸な目に遭うこともなかったと言うのに……」
セミル大神官は、固唾を呑んで口を開いた。
「それは一体どういうことですか」
「あなたの姪が、ナタリーの髪飾りを証拠に、内廷侵入の事実を密告しようとしたそうよ。イザヤ侍従はそれを知って……」
皇太后が言い終わらぬうちに、セミル大神官は執務机に向かって、その引き出しを開けた。
勿論、そこに髪飾りは無い。
「今まで気付かなったのね」
「……仰るとおりです」
やけに重みを感じる引き出しを閉めた。
「ところで、陛下は何用でこちらに……!?」
早く帰ってほしいと思った。
何も考えたくなかった。
「ナタリーを栄進させる動きがあるの。しかし、ホセ侍従の最後の小姓は行方不明。そこで、元々ホセ侍従の小姓であったイザヤ侍従を、ナタリーの相手にしてはどうかと思ったのよ」
「初夜の儀式の……ですか」
初夜の儀式に選ばれる平民は、神に仕える者から言わせてもらえば生贄である。もっとも価値のある命を神に捧げることで、妃栄進の恩恵を賜るのだ。初夜の儀式は、決して野蛮な行為ではなく神聖な行為なのだ。
故に、生贄の選定はセミル大神官に一任されている。
儀式前には、入浴後に使うようにと体を清めるための香油を渡す。乳香を細かく砕き、植物油に浸けて、香りの成分を移した聖なる香油は、神殿だけの秘薬であった。
「姪を殺した男よ。憎いでしょう?」
「ええ。勿論。犯人が分からないと言われ絶望しておったのです」
皇太后は「そうでしょうとも」と、満足気に頷いた。
「そもそも、ホセ侍従の小姓を逃がしたのも、あの男だと思うのよ。けれど、証拠が無くて捕まえられない。あの男は危険なのよ」
「そうですな。侍従を選ぶのは異例のことですが……やりましょう」
そうして、神殿の奥まった場所にある、限られた時しか開かれることのない扉が開かれることになった。
石積みの壁に囲まれた『儀式の間』は乳香が焚かれ、甘ったるい煙で満たされていた。
室中央にはベッドがぽつんと置かれており、そこに腰かけた人影は白い靄に包まれている。
イザヤ侍従は、冷たい石の床を一歩一歩踏みしめて、ベッドに近付いた。
「何故、処刑されると分かっているのに逃げなかったの?」
ナタリーは、イザヤ侍従を見上げて眉根を寄せた。
イザヤ侍従はその場で跪き、懐から純金の髪飾りを出した。
「これをお返ししたかったのです。予見出来るのに知らなかったのですか?」
「知っていたわ。私が訊いたのは、そういうことじゃない。あなたが何故こうなることを選んだのかってことよ」
ナタリーの瞳に涙が浮かんでいた。
突き刺すような視線が痛い。
胸のしこりが膨らんでいくような息苦しさを感じ、イザヤ侍従は目を逸らした。
「分かりません……」
「分からない? あなたは死ぬのが怖くないの!?」
ふとナタリーを見上げると、一滴の涙が頬を伝っていた。
何故、流れる涙さえ、これほど美しいのか。
顎で留まった雫が、じわじわと大きくなる。
落ちてしまう。
そう思ったとき、つい手を伸ばしていた。
初めて触れたナタリーの肌は温かかった。反して、濡れた指先は冷たい。当たり前のことだが、ナタリーも人間だったと思った。
「一つ、お訊きしてもいいですか?」
「何?」
ナタリーは、掌で頬を拭いた。
「ナタリー様は、私がミアを殺したことを知っていましたか?」
「え……?」
「やはり、知らなかったのですね。では、本来、ナタリー様の初夜の儀式を担当する筈だった小姓が行方不明になった理由も知らないのでは?」
ナタリーの瞳孔が開いていた。
「マルクス侍従が亡くなったときから、何かおかしいと思っていました。イオアンナ様から、変わり続ける未来を予見するのは困難らしいと聞いていましたが、そもそも全ての未来が見えているのならば、マルクス侍従に解毒剤を渡すのではなく、毒を盛るであろう人物を制止した筈です」
ナタリーの目が続きの言葉を待っている。
「ナタリー様は、未来にご自身が見るもの、聞くものしか予見できないのでは? そして、今の話は予見していなかったでしょう。私は今、本来なら自分の胸に留めておくであろう話をしています。つまり、私はナタリー様の予見を書き変えることに成功した。ということで合っていますか?」
ナタリーは口を開いたが、何も言わなかった。
動揺しているのが明らかだった。
ようやく「では……」と声を出したナタリーの唇が震えていた。
「では、もう一度訊くわ。何故、逃げなかったの? あなたなら、それは可能だったでしょう?」
「私が逃げれば、ナタリー様の初夜の儀式は、どこの馬の骨とも分からない者が担当することになります。ただの薄汚い平民がナタリー様を穢すようなことなど、あってはなりません」
ナタリーの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れた。
恐る恐るそれを拭うと、ナタリーは消え入りそうな声で「ゾーイに何と言えば……」と言った。
「ゾーイには……」
たった一人の妹だ。
敵を作り過ぎた自分だが、妹は悲しんでくれるのだろうか。
「天寿を全うしたとお伝えください」
ナタリーは頭を振った。
「私が浅はかだったわ……。未来が変わることを恐れず、もっと大胆に行動すべきだった。そうすれば、あなたも、マルクス侍従も、ミアも……」
やはり、ナタリーは高潔な存在だった。
イザヤ侍従にとっては憎々しかったミアのことでさえ、ナタリーは慈しむ。
闇に堕ちた自分とは正反対の、気高いナタリーが眩しかった。
欲を言うならば、皇帝にさえナタリーを穢されたくはない。永遠に清らかなまま、一生を過ごしてほしい。
何故そういう欲を抱いたのかは分からなかった。
常に、マケイラ妃の毒々しい心に触れていたからだろうか。彼女のような俗物に成り下がってほしくないと思った。
「ナタリー様。最期の不敬をお許しください」
透き通った目に見つめられるのが恐ろしく、イザヤ侍従は顔を上げぬままナタリーの手を取り、そっと髪飾りを握らせた。
白く、小さく、滑らかな手。その甲に口づけた。
イザヤ侍従にとって、その行為は祝福だった。
自分が旅立つことでナタリーの先行きを見なくて済むなら、それは幸せなことだった。
永遠の純潔――。
その記憶のまま神に召されるなら本望である。
激しく涙を流したナタリーは、一言「頭が痛い……」と顔を歪めて、そのまま気を失った。
おそらく、予見の海に呑まれたのだろう。
イザヤ侍従はナタリーをベッドに寝かせてから『儀式の間』を後にした。
『初夜の儀式』を務めた者は特進するそうで、イザヤ侍従は侍従長になると言われている。
セミル大神官から清めの香油を渡されたとき「史上最年少の侍従長だな」と言われた。
貧しかった平民が愚かにも出世を望み、それを叶えたのだ。
イザヤ侍従長、齢三十二――。
処刑場の空は、青く透き通っていた。




