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第一皇子が生後三ヶ月を迎えた頃、イオアンナ妃に夜伽の指名があった。
出産を終えてから、初めての指名である。
イザヤ侍従は初めてのことに緊張しつつも、そつなく毒見を終えてワインを注いだ。
皇帝とイオアンナ妃は寝椅子に並んで座っているが、人一人分の隙間を空けている。イオアンナ妃に至っては寛いだ様子もなく、姿勢を正した座り方だ。
その、よそよそしい関係性に違和感を覚えつつも、イザヤ侍従は空気になることに徹した。
「イオアンナ。皇后になるつもりはあるか?」
「皇后ですか!? 何故そのような……。陛下はまだお若いし、この先、皇子を産む妃も現れるでしょう。そのようなお話はまだ早いと思いますが……」
イオアンナ妃は早口で答えた。
嫌なのだ。と、イザヤ侍従は思った。
侍女が言うには、イオアンナ妃は皇子を出産してから変わったらしい。
「否、もしかしたらマルクス侍従が亡くなってからかも……」と侍女は言った。
「暗殺にひどく怯えるようになった」
「火事の後はそうでもなかった」
「守りたい者が出来れば人は変わるのでしょう」と呟いていた。
「皇子の一人や二人は誰でも産めるが、皇后たる器を持たぬ者には、その座は重すぎるであろう」
「仰ることは分かりますが、私がその器を持っているかと言うと、持っていないと思うのですが……」
珍しく皇帝が笑った。
「お前は期待に違わぬ答えを出すから面白い」
イオアンナ妃が理解していない顔で「ご期待に添えて光栄です」と、取ってつけたように言うと、皇帝は更に笑った。
「多くの妃が目指すのは、皇后の座に他ならぬと思うのだが、お前は気乗りしないのだな」
「はい。私が皇后になってしまえば、皇子の皇位継承順位が一位だと約束されたようなものになります。皇子が暗殺されやしないかと怖いのです」
「ふむ……。ナタリーから予言は?」
「依然として何も……。とくに、マルクス侍従を救えると思って解毒剤を渡したのに救えなかったと嘆いてからは口を閉ざしていますから……」
イオアンナ妃はナタリーをよく呼び寄せるが、ナタリーは「大丈夫よ」と言うだけで「暗殺や暗殺未遂は起こらない」とは言わないのだ。
勿論、毒見役はついている。
ナタリーの紹介で、毒見役トリフォンが移ってきた。「彼は毒で死なないから」と。
おそらく、ナタリーに予言できる精一杯の言葉でイオアンナ妃を励ましたのだろう。
しかし、イオアンナ妃にはその言葉だけでは慰めにならなかったらしい。
「陛下。皇后の器と言うなら、ナタリー様を皇后にされてはいかがですか?」
空気になろうと務めていた筈が、イザヤ侍従はドライフルーツが入った器を置こうとして、手を滑らせてしまった。
座卓上に、数粒のナツメヤシとレーズンがこぼれ落ちてしまい、頭を下げた。
「申し訳ありません。直ぐに片付けます」
皇帝はイザヤ侍従を一瞥したが、直ぐに意識をイオアンナ妃に戻した。
「ナタリーを皇后に?」
「はい。ナタリー様ならば預言者ですし、後見人は皇太后陛下です。議員達も反対出来ないでしょう」
「ふむ。確かに達観した視野の持ち主ならば、後宮を統べるには適材ではあるが……。しかし、皇后は皇子を産んだ妃から選ぶのが慣例だ。例え預言者と言えど、そこは譲れぬと皆が異を唱えるであろう」
「産まなければいけないのですか?」
「ん?」
「養子ではいけませんか? 私は皇子を守れるかどうか不安でなりません。しかし、ナタリー様なら、たとえ口に出せずとも未来は見えているので、皇子を守ってくださると信じているのです」
「ふむ……。養子か……」
皇帝はそれ以上、何も言わなかった。
この日は話し合いだけで解散となり、闇に包まれた遊歩道をイザヤ侍従とイオアンナ妃は共に歩いた。
「イザヤ侍従」
ふと、イオアンナ妃が立ち止まった。
「はい」
「あなたには申し訳ないと思っているけれど、私も必死なの」
「仰っていることが分かりませんが……」
「ナタリー様は来月で齢二十五。このままいけば、ナタリー様は後宮を追い出されると思っていたでしょう?」
「いいえ。考えたこともありません」
「本当に?」
「はい」
「あなたがナタリー様を慕っていると思ったのは、私の勘違いであった。と、いうことでいいのね?」
「はい」
闇夜で良かったと思った。
イオアンナ妃の純粋な目で見つめられるのが怖かった。
「では、邪魔をしないでね」
「そのような畏れ多いことなど……」
「私は邪魔をしないでねと言ったの。はい、と答えて」
「はい」
「ありがとう。あなたを信じるわ」
冷たい夜風が吹き抜ける中、イオアンナ妃はショールを掛け直して背を向けた。
母としての決意がこもった背中だった。
但し、イオアンナ妃は本当に勘違いしている。
イザヤ侍従にとってナタリーは、愛だとか恋だとか、そういう俗っぽい感情を向けてもいい対象ではなかった。高潔なナタリーの姿を拝めるだけで良かった。
そのナタリーが、ただの妃ではなく皇后として君臨するならば、その輝きは増すのではないかと思っている。
しかし、ナタリーを穢されたくはない。
とくに『初夜の儀式』だ。
ただの汚らわしい平民が破瓜するなど、あってはならない。
皇帝は協議にかける筈だが、皇子を産んでもいないのに養子を迎えて皇后の座につくとは、賛成派と反対派が激しく衝突するのは目に見えている。
案が通らなければいいことだ。
イザヤ侍従はそう思っていたが、それが通った。
賛成派が正史を調べ、前例があったことを持ち出したのである。
やはり、そこで問題となったのが『初夜の儀式』であった。
妃候補から、先ず妃になる手順を踏まねばならないと。
しかし、ムラトは行方不明。
会議をしているうちに、ナタリーが齢二十五を迎えるまで残り二十日しかなかった。今から汚れ役を探すのは無理だろうと。
そこで、皇太后は思った。
イザヤ侍従を始末しよう――。




