不安
ちらちらと雪が舞いはじめ、後宮の女中達が農神祭に飾るためのリースを編みはじめた頃、神殿の一室に元気な産声が響き渡った。
「おめでとうございます!! イオアンナ様!! 男児ですよ!! 健康です!!」
侍女は、イオアンナ妃が疲労で脱力しているのもそっちのけで声を上げてはしゃいだ。
おくるみに包まれた赤子は肌がふやけて皺々なのに、イオアンナ妃は愛らしい姿だと思った。紛れもなく自分が産んだ赤子だと、本能的に察するものがあるのだ。見えない糸で繋がっているような感覚だろう。
「そう……」
次第に大きくなっていく腹の中で、暴れているのかしらと思うような胎動を感じた時は、その存在は限りなく愛おしかった。健康で産まれてきてくれてよかったと心の底から思っている。
しかし、男児とは……。
未だマルクス侍従の最期を夢で見るくらい、あの日のことは忘れられないのだ。第二のマケイラ妃が現れぬとも言いきれない後宮で、果たして自分はこの子を守りきれるのかと思うと、喜びよりも不安の方が大きかった。
一方、その頃、イザヤ侍従はホセ侍従と対峙していた。
ようやく新たな主人を迎えるのだと、デニスとハリに宮の設えを指示していた時、怒りを腹に据えかねた顔でホセ侍従が訪ねてきたのだ。
ホセ侍従の怒りに見当がついていたイザヤ侍従は、彼を自室に招き入れた。
「貴様!! ムラトを逃がしたな!?」
ホセ侍従は、イザヤ侍従よりも背丈が低い。
しかし、イザヤ侍従の胸元を掴み、激しい剣幕をぶつけてくる様は迫力があった。
「ええ。よくお分かりで」
「何をのんびりと……!! 事の重大さが分かっているのか!?」
事の重大さとは。
イザヤ侍従は、皇太后にダガーナイフを預けた日のことを思い起こした。
アリバイ工作の協力を頼んだ後、皇太后に『妃候補と小姓』の関係を問うたのだ。栄進の度に、小姓が殺される理由だ。
「初夜の儀式なのよ」と言った皇太后の言葉が、印象深く頭に残っている。
それから、皇太后は諦めたように語った。
「妃とは、建て前は高貴だけれど、その実態は皇帝専属娼婦……。処女のまま妃になることは掟で許されていないのよ」
イザヤ侍従は疑問を投げた。
「では、ホセ侍従の小姓は、その役割のために雇われていると? 平民に役割を果たさせて、口封じのために殺すということですか」
平民の命を何だと思っているのか。
吐き気を催しそうなほど、腹の底から怒りが迫り上がってきた。
「平民のあなたが怒るのはもっともだと思うけれど……。昔は役割を果たしても殺されなかったそうよ。しかし、箝口令を言い渡して放逐した平民が、無心に来ることも間々あったと」
皇太后は「多額の手当てを渡していたにも拘わらずね」と付け加えた。
「それで、役割を果たした者が処分されるようになったと仰るのですか」
「ええ。恐喝は酷くなる一方で、追い返したら広場で演説しようとした者もいたらしく……。役割を務めた者が処されるようになったのは、おそらくそれがあったからでしょう」
「しかし、そもそもの原因である初夜の儀式とやらを廃止に。とは考えなかったのですか」
「勿論、試みた時代もあったそうよ」
「では、なぜまた……」
「あなたには、女性の初夜の痛みなど想像もつかないでしょう。暴れて皇帝に傷をつけてしまった者がいたのよ」
だから、納得しろ。と言いたいのだろうか。
考えていると、ぐいっと胸元を引っ張られて、ホセ侍従と目が合った。
「おい!! 聞いているのか!?」
「聞いていますよ」
離してくれという意味で、とんとんと腕を叩くと、ホセ侍従の腕から力が抜けた。
「あなたに雇っていただいた時は、愚かにも出世を夢見て働いていました。まさか、汚れ役を担わせるためだったとは思ってもいませんでした」
「私だって、やりたくてやったわけではない!! それを命じられたら仕方ないだろう!!」
「ええ、そうなのでしょう」と、イザヤ侍従は頷いた。
「所詮、私達は宮廷という巨大な怪物には逆らえない。ホセ侍従も私も、ただの駒として役割を果たせばいいのでしょうね」
ホセ侍従から見たイザヤ侍従は、どこか遠くを見つめているようだった。
その達観した様子に、大声を上げて取り乱していた自分が急に幼稚に思えてきて、咳払いで心を落ち着かせた。
「それが分かっているなら、何故ムラトを逃がしたんだ。私は今これを告げるか黙秘するか、究極の選択を迫られているんだぞ」
「そこを悩んでもらえるとは、私を心配していると受け取ってもいいのですか」
イザヤ侍従は小さく笑った。
「いや、まぁ……。運よく私の手を離れたのに、何故わざわざ首を突っ込むのかと思ってな。大してムラトと親しかったわけでもないだろう」
「何故でしょうね……。罪滅ぼしがしたかったのかもしれません」
「ああ……」
ホセ侍従は、皇太后に報告したときのことを思い出した。
皇太后は盛大にため息を吐いて「イザヤ侍従の仕業に間違いないわ」と言った。
「初夜の儀式を知られたの」と観念した顔を見せた皇太后から、イザヤ侍従が女中を殺害したことやその動機も聞いている。
イザヤ侍従の「罪滅ぼし」という単語から、彼の背負ったものが見えた気がして言葉が出てこなかった。
「ところで、ホセ侍従は何故私が逃がしたと思ったのですか?」
「それは、皇太后陛下がイザヤ侍従だと仰るから、確かに監督次官なら外出許可証を発行出来るなと思ってな……」
「そうですね。外出許可証を発行出来ますし、その記録を取ります。しかし記録が無ければ、誰が何と言おうと立証することは出来ませんよね」
「ということは、未記載で発行したのか!?」
「はい。ですから、ホセ侍従がこの件で悩む必要はありません。黙秘すればホセ侍従にも火の粉がかかります。近衛兵長にムラトを逃がした者の捜査を依頼してください」
「なっ……!? 正気か!?」
ホセ侍従は思わず口を覆った。
確かに、そうすれば自分は後ろめたさを負わずに済むのだが……。
捕まえられるものなら捕まえてみろ。と、挑戦状を叩きつけるようなものだろう。
「私のことは心配しないでください」
そう言ったイザヤ侍従の顔は、意外にも晴れやかだった。




