回帰
まどろみの中、ぽたぽたと滴る水音が聞こえてナタリーはゆっくり目を開けた。
額に冷たい布が乗せられている。
「ナタリー様!! 気がついたのですね!!」
心配そうに顔を覗き込んできたのはゾーイだった。
「ああ、良かった。本当に良かった。あ、待っていてくださいね。セミル大神官を呼んできます」
パタパタと足音が遠ざかっていく。
ナタリーは漆喰が塗られた高い天井を虚ろに見つめた。
ここは『儀式の間』ではない。
ゆっくりと周囲に目をやると、とても広い空間に、沢山の無人のベッドが整列していた。
神殿の病室だ。
いつの間に、ここへ運ばれたのだろうと思った。
やがて姿を見せたセミル大神官は、先ほどゾーイが座っていた木の椅子に腰を下ろした。
ナタリーの額から布を取り、手のひらで体温を確かめる。
「まだ、熱がありますな」
ナタリーは『儀式の間』でイザヤと最期に過ごした時間を思い出して、喉の奥が熱くなった。
イザヤが話していた通り、ナタリーは自身が見たものや聞いたことしか知ることは出来ない。イザヤの処刑される姿を見たわけでは無い。
しかし、溢れてくる涙は止まらなかった。
「外傷は見当たらないが、どこか……」
外傷……?
何を言ってるんだろうとナタリーは思ったが、余韻の涙はなかなか止まらず、さらに頭痛がした。
「どこか痛むのかね?」
「頭が……割れそうに痛いんです……」
「ああ、そうか。冷やそう。それがいい」
セミル大神官は狼狽えている。
ゾーイは「花瓶が当たったのですか!?」と問いつつ、セミル大神官から受け取った布を水に浸した。
花瓶……?
何かがおかしい。『儀式の間』で気を失った筈なのに。と過去を探ろうとすると、さらに頭痛がひどくなった。
そして、気付いた。
過去ではない。あれは未来だったのだ。
現在は、ミアが花瓶を落とした後だ。
花瓶が落ちる直前、誰かに呼ばれた気がして振り向くと、誰もいなかった。ただ、予言の神が視界の中で立っていただけだ。
しかし、あの無風のような危険を察知するおかしな感覚があった。
花瓶を避けて倒れた後、花瓶の割れてはじける音が盛大に脳内に響き渡り、そして気を失ったのだ。
体を起こすと、セミル大神官が「起きあがっては辛いでしょう」と言った。
「大丈夫です。二人に話さなければならないことがあるので……」
まだ、イザヤの唇の感触が手の甲に残っている。
あれは、死を覚悟した最期の口づけだったのだろう。
「今、話さなければならないのか? 少し落ち着いてからの方がよいのでは……」
「いいえ……。突然のことで整理がつかなくて……忘れてしまわないうちに話さないと……」
現在、イザヤは生きている。
マルクス侍従も、ミアもまだ生きている。
「私……未来を見たわ……」
「ん?」
セミル大神官とゾーイが目を見交わした。
セミル大神官は、何を言いだしたんだ? と言いたげな顔で、ゾーイは分かりませんと答えるように頭を振った。
「ああ……。何を言いだしたんだって思うわよね……。私が頭を打っておかしくなったと思っているでしょう?」
「いやいや、そんなことは……」
セミル大神官が狼狽えている。
口では否定したが、言い当ててしまったのだろう。
予見の能力を信じてもらうのは難しそうだと思った。
確か、この次の言葉は……。
「「やはり落ち着いてから……」」
セミル大神官と声が重なった。
「信じられないのは分かる……。けれど事実なの。大神官。花瓶を落としたのはミアですね?」
「え……? それは大神官が手を滑らせたのでは……」
ゾーイが、信じがたい様子でセミル大神官を一瞥した。
やはり、予見したままの現実だった。
未来を変えるには、必ずセミル大神官に能力を認めてもらわねばならない。
正しく思い出さそうとすると、頭痛がした。
「では、少し先の話を……。もうすぐイザヤが大金を手に入れます」
そう言った時、ちょうど病室の前を通りかかった神官達の話し声が聞こえてきた。
「クロエ妃が追放されるという話は聞いたか?」
「ああ、先ほど兵士が見送っているのを見たよ。栄進したばかりだというのに横領だと」
「しかし、羨ましいのは後宮監督次官だな」
「何かあったのか?」
「クロエ妃の財産は没収されたが、その一部が報奨金として下賜されたらしい。一部とは言えど、我々には目にすることのない大金だ……」
話し声が遠ざかっていくと、セミル大神官は「何と……」と呟いた。
「今の話が当たっただけでは、まだ確信を持てないと思いますので、もう一つ予言をします。それが当たったら、私を神殿の聖女にしていただけませんか?」
「聖女ですと? しかし、ナタリー様は皇太后陛下が後見している妃候補ですぞ。妃になり、皇子を産めば、皇后の座も夢ではないと言うのに……」
「そうですね……。けれど、私は妃になるのを辞退します」
――完――




