血の儀式
その日、神殿では儀式が行われていた。
大理石の祭壇の四角い角には、神殿を清め、神を歓迎するための、月桂樹の生葉が編んで飾られてある。
セミル大神官は、祭壇の端に置かれている聖水を覗き込んだ。青銅の盆に満たされている冷たい聖水は、鏡のように姿を映す。
疲れた顔をしているな……。
まるで他人事のように思いつつ、そこに指先を浸して身を清めた。
ミアはなぜ純金の腕輪を欲しがったのか。面倒に思わず聞いてやればよかった。という思いが不意に脳裏をかすめたが、今は儀式に集中せねばと邪念を振り払った。
儀式は、まず神に香りを届けることから始まる。
セミル大神官は、乳香の塊を取った。それを、炭が燃え盛る青銅の香炉に落とすと、甘く重苦しい白い煙が神殿内に立ち込めた。
青銅皿に、並々と注がれている濃赤色のワインは、神への献酒。その横には、羽を縛られた生贄の鶏と、冷たく光る聖剣が置いてある。
セミル大神官は、大理石の器に盛られた聖塩を掴んだ。塩と大麦の粉を混ぜたものだ。生贄を大人しくさせるためのものである。これを生贄の鶏の頭に振りかける。その重みで鶏が頭を下げると『お辞儀したから神が生贄を受け入れることに同意した』という解釈になる。
もし鶏が暴れたら不吉な予兆とされるのだが、数日前から餌を与えず、前日には羽を縛るので、衰弱した鶏が暴れることは滅多にない。
しかし、この日は羽を縛っていた紐が切れて、鶏が羽ばたいた。
不吉な予兆かと、神殿内は一時騒然となったが、神官が羽を縛りなおし、儀式を再開した。
セミル大神官が聖剣を持つと、聖職者達が太鼓を鳴らしはじめた。
同じ頃、イザヤとミアは神殿の地下にいた。
儀式用の生贄の鶏を保管しておく小屋の奥に、地下へと続く石階段があるのだ。そこは、かつての古い地下墓所で今は使われていない。
ミアは、ナタリーが侵入者であったことを皇帝に密告しようと神殿に来ていたのだが、儀式に参加しようとしていたイザヤが、それに気付いたのだ。
イザヤは、ナタリーの髪飾りを見間違えることはない。
直ぐにミアの思惑が読めて、咄嗟に人気のないこの場所に連れ込んだのである。
「何なのっ!?」
ミアはイザヤを恐れつつも、腕を掴まれている手を振りほどいて睨みつけた。
「その髪飾りはどうした」
イザヤの切迫した表情に気付くと、ミアは心の中で狂喜した。
「ああ、そっか!! あんたはこれが何か分かるんだ!? だって、ゾーイのお兄さんだもんねぇ」
喜びを噛みしめるかのように悪どく話すミアを、イザヤは冷酷に見つめた。
ゾーイと兄妹であることを、マケイラ妃に告げたのはお前だったのか。と怒り狂いそうだった。
「それで? それをどうするつもりなんだ」
「どうするって、告げるに決まってるでしょ。決まりを破ったのに隠してたなんて、そんなこと許されないわ」
「お前……今さらそれを白日の下に晒せばどうなるのか、分かってるのか?」
皇帝はナタリーに解毒剤まで与えたのだから、おそらくナタリーを殺したくない筈だ。預言者としての利用価値をナタリーに見出したのだろう。
しかし、ナタリーが侵入者だったと公に知れ渡れば、女中虐殺事件で理不尽に殺された者達の親族は黙っていない筈だ。皇帝が民衆を敵に回してまでナタリーを守るだろうかと思うと、それは考えにくい。
「そんなの知らないわよ!! とにかく、あんた達はもうおしまいね。いい気味だわ!! 分かったら、もう話しかけないで!!」
ミアは地上への階段を上ろうとした。
「待て!! それを寄こせ!!」
イザヤは咄嗟にダガーナイフの切っ先を突きつけた。
皆が持っているダガーナイフは模造刀だが、皇太后から下賜されたこれの刃は本物である。
しかし、どうせ模造刀のくせに、と思い込んでいたミアは「ふん」と鼻で笑った。
神殿から太鼓の音が響きはじめる。
もうすぐ、生贄の鶏の首が切られるのだ。儀式が終わりに近付いている。
早くミアを説得しなければ。とイザヤは焦っていたのだが、それはミアも同じだった。儀式が終わる前に神殿に行かないと、ミアが次に皇帝に近付けるのは一月後の儀式日になってしまうからだ。
「寄こせ!!」
「嫌よ!!」
「お前は頭が悪いから、先行きが見えてないだろう!! 俺達を失脚させたいだけなら、それはやめておけ!!」
「それはあんたの都合でしょ!! もう、あんたと話してる暇はないの!! そこをどいて!!」
地上の太鼓の音は、益々盛大になった。
地下での争いの声は、誰にも届かない。
セミル大神官が生贄の鶏の首を刎ねた瞬間――。
イザヤのダガーナイフは、ミアの首を薙いでいた。
地上では、生贄から飛び散った鮮血が、白い聖塩を染め、聖水を滲ませていた。
神への供物から滴る血は、青銅の盆で受け止める。
セミル大神官が、鶏の足を掴んで逆さ吊りにすると、老化のせいか握力が衰えていたところに鶏が暴れ、つい手を離してしまった。
首なし鶏は、鮮血を撒き散らしながら神殿内を走り回り、床に跪いていた妃達は、悲鳴を上げて逃げ回った。
ようやく動きが止まって倒れた首なし鶏は、その場に血の海を作った。
地上の騒ぎの真っ只中、地下にもう一つの血の海が出来ていたことは誰も知らない。
イザヤは血の海に落ちた純金の髪飾りを拾い、丁寧に汚れを拭き取った。
一向に輝きを失わない髪飾りは、イザヤにとって憧れというよりも欲求に近かった。欲しくて手に入れたくてたまらないのに、自分などが欲してはいけない対象物だった。
これは、あの方のもとへ届けなければいけない。
イザヤは髪飾りを胸に抱いて、地面に頭をつけた。
僅かな間だけでも、それを胸中に収めたかった。




