テリアカ
「陛下へのご報告の前に、イオアンナ様の口から直接うかがいたいことがあります」
イオアンナ妃の宮を訪れたマルクス侍従は、開口一番にそう言った。
昨夜、イザヤから全てを聞いたのだ。
ゾーイが妹であることを知られたためイザヤはマケイラ妃に従うしかなく、ゾーイから得られる情報を渡したのだと。
それを聞いたとき、マルクス侍従は面倒なことになったなと思った。
デニスとの話を誰かに聞かれていたのだ。余計なことを訊いた自分が間違っていたと後悔した。
「私に答えられることでしたら」
イオアンナ妃はそう言って微笑むと、マルクス侍従を応接間に案内した。
ノーラン侍従が管理する宮は、妃候補の宮よりは広いが、イオアンナ妃を寵妃と呼ばせるには、やはり狭いなとマルクス侍従は感じていた。
再三言うが、侍従は宮の管理人である。皇太后宮の西隣の宮を管理するのがマルクス侍従なのであって、マケイラ妃は後宮監督官の判断で、そこへ住まわせてもらっているだけである。
皇帝が画策している『宮替え』が実行されれば、マルクス侍従の管理する宮にイオアンナ妃が移ってくることになるのだ。
いずれ実行されることになるし、今のうちからイオアンナ妃と接触しておくのも悪くないと思い、まず今の状況を知ろうと訪ねてみたのだった。
マルクス侍従は案内された応接間のシングルソファに腰かけて、イオアンナ妃と向き合った。
「率直にお訊きします。妊娠したと聞きましたが事実ですか?」
イオアンナ妃は「ああ、その件でしたか」と前置きした。
「ナタリー様が仰いましたから、おそらく事実なのでしょう。私としては胸の辺りが気持ち悪いので、これが妊娠したことによる体の変化なのかと思っています」
「そうですか……」
否定しなかったなとマルクス侍従は思った。
妊娠しても不思議ではない関係があったということだ。
皇帝もイオアンナ妃も、お飾りの寵妃としての立場と姿勢で義理を果たしているだけのように見えていたが、それがいつの間にこんなことになっていたのかと思うと、祝いの言葉を述べることさえ忘れていた。
ほどなくして、ノーラン侍従が水差しとグラスを運んできた。
天然のガラスは鉄分による青緑色のものが基本だが、このグラスは無色透明にこだわった職人の技術が光っている。
水差しから注がれる飲みものの色がはっきりと透けて見え、やや濃い琥珀色で何かの繊維が浮いていると判断できた。
「これは?」
マルクス侍従は座ったまま、給仕してくれたノーラン侍従を見上げた。
「りんご酢の水割りです。庶民の飲みものなので、本来お妃様にお出しするべきものではないのですが、私の田舎では妊娠した女性が好んで飲んでいたのです。試しにイオアンナ様にお出ししたら、お口に合ったようでして」
「どうぞ」と言わんばかりにイオアンナ妃が手のひらを向けたので、マルクス侍従はそれを口に含んだ。
突き刺すような酸味である。
自然と口がすぼまり、顔中のしわが鼻の頭に集まった。
「これは……随分、酸味が強い飲みものですね」
普段は冷徹なマルクス侍従が、一瞬不細工な顔になったのが可笑しく、イオアンナ妃は「ふっ」と吹き出した。
「酸っぱすぎましたか? イオアンナ様は好まれるのですが……」
イオアンナ妃は笑いを堪えるため、飲みものを一口含んで大きく息を吸った。
その顔は平然としており、表情を歪ませることはない。
「いや、失礼……。平気だ」
マルクス侍従は息を止めて、一気に半分ほどを流し込んだ。
やはり、酸っぱいものは酸っぱい。
奥歯を噛みしめてそれに耐えるが、両目がきつく細まってしまう。
やはりその顔も不細工で、イオアンナ妃は両手で顔を覆って肩を震わせた。
「マルクス侍従のそのような姿を見られるのは貴重ですね」
ノーラン侍従も、顔を背けて肩を震わせている。
「このような飲みものは初めて口にしたので、慣れていれば私も……」
マルクス侍従は言いかけて「んんっ」と咳払いした。
おかしなものを飲んだせいで、やけに口の中が乾くなと思った。
強がって流し込んだから、りんごの繊維が喉に引っかかったのだろうか。喉に違和感がある。
「ノーラン侍従。すまないがワインを一杯いただけないだろうか」
「承知しました。口直しですね」
皮肉を付け加えたノーラン侍従は、愉快そのものの顔で小姓にワインの手配を指示した。
しかし、ワインを流し込んでも喉の違和感は消えない。
それどころか、猛烈な渇きに喉が熱くなり、唾を飲むのさえ辛いほどの痛みが押し寄せ、激しく咳込んだ。
「マルクス侍従? いかがされましたか?」
イオアンナ妃が心配そうに言った。
「申し訳ない……。トイレをお借りします」
マルクス侍従の額に脂汗が滲む。
胃を雑巾のように絞られるような凄まじい痛みが襲っていた。
嘔吐し、水のような下痢が始まった。
食あたりではない。自分の呼気から、ニンニクのような臭いがしていた。
ヒ素だ。
マルクス侍従は懐を探った。
ナタリーから渡された解毒剤を常に持ち歩いている。
しかし、あるべき場所にそれは無かった。
どこかに落としたのかと思い、応接間に戻るとシングルソファの上に落ちていた。
「マルクス侍従。体調が悪いのですか?」
ノーラン侍従が訊ねたが、答える余裕は無かった。
助かったと思い、解毒剤を握りしめたとき、イオアンナ妃が咳き込んだ。
振り返って見ると、イオアンナ妃は喉を掻いている。
「え……。イオアンナ様まで……」
ノーラン侍従は一瞬で思考を巡らせて、ただならぬ事態が起こっていると察したような顔をした。
マルクス侍従の解毒剤を握る手に力がこもった。
ナタリーの予言から、イオアンナ妃が亡くなるという話は聞いていない。
「陛下に報告してこい!! ヒ素だ!! 解毒剤が要る!!」
胃の激痛に耐えつつ力の限り声を振りしぼると、ノーラン侍従は直ぐさま背を向けて疾走した。




