諜報
かつて権勢を誇っていたマケイラ妃の宮は、今やきびきびと働く侍女や女中の姿を見ることはない。
マケイラ妃は宮に閉じこもっていればいいが、そうもいかぬ侍女や女中は、厨房やあるいは洗濯の場で周囲からの冷ややかな視線を浴びている。
彼女らはようやく鼻高々になっていた自分達の愚行に気付いたが、厨房に食事を受け取りにいけば並んでいたのに先を越され、洗濯にいけば隅の方へと押しやられる。嫌がらせとも言える扱いにあうことが多い。
自覚は無かったが、これまで他の者達を心の中で見下していたのだろうと思うと耐えるしかなかったのだが、これほどの嫌がらせを受ける謂れは無かった。
それらは全てミアのせいなのだ。ミアがこれまで行なってきた報いを肩代わりさせられていると思うと、腹立たしくて仕方なかった。
ある女中は、洗濯の場でとうとう耐えきれず「よくそこまで豹変できるわね。前はどうぞここで洗ってください~なんて気持ち悪い声を出していたくせに、まるでミアみたいで笑えるわ」と鼻で笑って言い返した。
ミアみたいと言われた女中は、誰かが「ぷっ」と吹き出したのを聞き逃さなかった。
皆、マケイラ妃の侍女と女中を嫌っていたくせに誰が笑ったのかということも癪に障ったが、ミアみたいと言われたことは、さらにそれ以上だった。
「あんな女と一緒にしないで!!」
そして二人は取っ組み合いになり、マケイラ妃の女中は水場に突き落とされた。
そこへたまたま現れたのが、イザヤ、デニス、ハリである。
イザヤ達は水を汲みに来たのだが、後宮監督次官を兼任しているイザヤにその現場を目撃されたのは不運だった。
イザヤは全体の様子を一目見て状況を察し、「おい!!」と警ら中の兵士を呼び寄せた。
「そこの女中を監督官に引き渡してくれ。他の者を水場に突き落とした」
彼女が連行されると、イザヤはマケイラ妃の女中に手を貸し水場から引き上げた。
そのイザヤの姿は、やはり弱者を助ける正義の味方だと心酔する者もいれば、マケイラ妃の女中だから助けたのだと噂する者もいた。
それらは賛否両論としても、この事態で導かれた答えは、マケイラ妃の陣営を落とすのは難攻不落だということであった。
マケイラ妃が寵愛を失ったとて、その直属小姓が後宮監督次官では立場の弱い者は逆らえない。
この一件から、元寵妃という名で、かろうじて立場を守っている妃という周囲の認識は、静かに変わっていった。
イオアンナ妃が寵妃になろうとも、ただそれだけでは……と。
もしイオアンナ妃が皇帝に見捨てられれば、元寵妃同士の上下関係は、後宮監督次官のイザヤを側に置いているマケイラ妃の方が圧倒的に強くなる。
どちらの陣営と親交を深めるべきか、慎重に見定めなければならない時期がやってきたのだ。
そんなふうに風見鶏となった者達が息を潜めはじめた頃、イザヤはマケイラ妃の化粧部屋に呼ばれた。
マケイラ妃は日中、庭が見える居室でワインを嗜む。
日が暮れて彼女が去った後の居室はいつも強い酒の匂いが立ち込めており、飲み残しのワインが入ったカップや手つかずの料理が残されている。
この日は貿易でしか手に入らない高級な果物であるサクランボがワインのつまみに出されていたが、マケイラ妃はそれに全く手をつけていなかった。
みずみずしくて甘酸っぱい初夏のサクランボは妃達に人気の果物だが、侍女や女中のような身分の低い者にはそれを口にする機会はほぼ無く、狙いを定めたハイエナ達は居室の片付けに集まっていた。
それはおそらく内密の話を聞かれぬようにマケイラ妃が計算したことで、イザヤが化粧部屋に向かうのに気付いている者はいなかった。
「イオアンナ妃が妊娠……?」
マケイラ妃は化粧部屋にある鍵付きの洋服箪笥から夜着を取り出すと、振り返って険しい顔を見せた。
「はい。まだ神官に診せていませんが、ほぼ間違いないと」
夜着を持ったマケイラ妃は寝室に入り、両開きのカーテンを閉めて着替えはじめた。
イザヤは扉が開いたままの洋服箪笥を見つめていた。
いくつもの棚に、四角く折り畳んだドレスなどが収納されてあるのだが、何も置かれていない棚に小瓶がぽつんと置かれていたのだ。
あれは何だ? と思っていると、カーテン越しにマケイラ妃の声が聞こえた。
「では、まだ一部の者しか知らないのね……」
「はい。そのようです」
イザヤは、淡々と答えるマケイラ妃が不思議に思えて仕方なかった。
ゾーイから聞いた話を伝えたくはなかったが、ゾーイが狙われるのを避けるために報告している。
しかし、この話を告げれば怒り狂うだろうと思っていたのにマケイラ妃は冷静なのだ。
「ところで、アサイ族への下賜品は聞き出せたのかしら」
「申し訳ありません。妹も中身は確認しなかったようで、その行方も知らぬようです」
実は解毒剤が下賜されたと聞いている。
それは「死ぬな」と皇帝が言ったようなものだ。
皇帝の心を奪えなかったマケイラ妃には、イオアンナ妃の妊娠より、そちらの方が許せないと思いそうで、伏せておくことにした。
ナタリーへの嫉妬が大きくなるのは避けたかったのだ。
しかし、行方を知らないのは事実である。
「嘘ではないでしょうね?」
「はい。監督官とマルクス侍従が届けにきた後、妹は所用で席を外したそうです。それほど長い時間ではなかったそうで、マケイラ様が押しかけた時は用を終えて戻ったばかりだったと」
「そう……。引き続き情報を待っているわ。戻りなさい」
寝室から出てきたマケイラ妃は洋服箪笥から小瓶を取り出した。
何か引っかかるが確信は持てず、イザヤは一礼して寝室を後にした。
応接間を抜けて玄関に行くと、まだ居室を片付けている音が聞こえてきた。
サクランボを狙って皆で掃除とは、幸せな奴らだなと思いつつ外に出ると、暗闇にマルクス侍従が立っていた。
「イザヤ。マケイラ様に何を報告した?」
イザヤは化粧部屋に向かうところを誰にも見られなかったので、誰も気付いていないと思っていた。
しかし、マルクス侍従はそれ以前に侍女長がイザヤに何かを耳打ちしているところを目撃していたのだった。




