薔薇の芳香
八年前、ナタリーとゾーイが矢の襲撃を受けたウェストガーデンは、あの日のことなど無かったかのように、変わらず濃厚で甘い芳香を持つダマスクローズが満開に咲き乱れている。
ナタリーは毎年この時期になると、ウェストガーデンに慰霊の訪問をしていた。
レブラーン帝国では、法律で『死者を城壁内に埋葬してはならない』と厳格に定められている。兵士や侍従・侍女などの身分の低い者は職能組合に加入しており、その組合員が死亡した場合は、郊外にある地下の共同慰霊堂に埋葬されることになっているのだ。
しかし、後宮の妃らは外出が許されず共同慰霊堂まで足を運べない。
よって、皇太后が遺体のない空っぽの墓碑をウェストガーデンに建設した。
それは、小さな石板に四名の女中の名と碑文が刻まれているだけの墓碑だが、生前、親交のあった者達はここへ訪れることも間々あるようで、遊歩道で侍女や女中とすれ違うこともある。
余談ではあるが、ナタリーはこの八年間、ミアとは一度もすれ違ったことはない。
今年はイオアンナ妃も同行した。
イオアンナ妃は、同時期に後宮正門近くに建設された『女中虐殺事件』の墓碑には毎年訪れていたが、あの凄惨な事件の印象が強すぎて、ウェストガーデンで被害者が出たことを認識していなかったと、ひどく悔やんでいたのだ。
墓碑に辿り着くと、ゾーイは持参した毛氈を敷いた。
ナタリーとイオアンナ妃はその上で跪き、指を組む。
まず、ナタリーから祈りの言葉を捧げた。
「あなた達の上に、大地が軽くありますように」
死者が冷たく重い土の下で苦しまないように、という意味である。
「大地が軽くありますように」
続いてイオアンナ妃も祈ると、ゾーイとイオアンナ妃の侍女は瞳を閉じて黙祷した。
湿った土とダマスクローズの圧倒的な香りが、鼻の奥を刺激した。
「イオアンナ様、今日はありがとうございました」
「いいえ、私が来たかったのです。これまで足を運べなかったことが悔やまれて……」
言いつつ立ち上がろうとしたイオアンナ妃の体がよろめいた。
「イオアンナ様!?」
ナタリーは咄嗟に支えたが、イオアンナ妃の顔色がよくない。額にうっすらと汗が滲んでいる。
暑さによるものではなく、不調から滲みでたものだ。
「申し訳ありません、ナタリー様。少し目眩が……」
侍女がもう片方を支えると、イオアンナ妃はその手を借りてようやく立ち上がったが、途端に口を押さえて「うっ」と呻いた。
「大丈夫ですか? もしかして、体調が悪いのに約束をしたからと無理をされたのでは……」
「いいえ、そうでもなかったのですが……。本当に申し訳ありません。薔薇の香りが強いものですから、少し気分が悪くなってしまい……」
確かに、ウェストガーデンの生垣は薔薇で埋め尽くされており、むせ返るような香りに包まれている。
ナタリーは『未来の記憶』を辿った。そして、思い当たる未来を見つけた。
「早く戻りましょう。おそらくイオアンナ様は妊娠しているので花の強い香りが受け付けないのです」
「え……!? 妊娠?」
イオアンナ妃は驚愕し、自分の侍女と目を見交わした。
そういえば月のものはいつであったか……。
一瞬、疑ったが、未来を知るナタリーが言うなら間違いない。
まだ実感の湧かないイオアンナ妃の横で、侍女は「凄いですよ!! 陛下の初めての御子様ですよ!!」と、はしゃいだ。
イオアンナ妃がお飾りの寵妃であるという事実を知るのは、マルクス侍従とノーラン侍従だけである。
何も知らない侍女からすれば、陽の目を浴びることなく終わると思っていた主人が皇帝に望まれただけでも快挙であっただろうに、ここに来て妊娠となれば、イオアンナ妃はマケイラ妃さえ凌ぐ寵妃だと皆が認めることになる。あわよくば男児を出産してくれれば皇后候補。
これまでマケイラ妃の侍女や女中、とくにミアだが、横暴に振る舞ってきた者達を黙らせられると思うと、侍女は涙が出るほど嬉しかったのだ。「やったわ!! これまで耐えてきた甲斐があったわ!!」と、イオアンナ妃に抱きついた。
しかし、イオアンナ妃の心中は侍女と同じではなかった。
皇帝とは偽りの契約で、周囲を欺くために幾度も指名をいただいたが、ずっと性的な奉仕を求められることは無かった。
ただ一度だけ。どういう気の迷いか、一度だけ皇帝に求められたのだ。
まさか、そのたった一夜の契りで身籠るとは、皇帝も想像していないだろう。
お飾りの寵妃は、役目を終えた後は静かに過ごせるものだと確信していたのに、妊娠してしまうとは。
どうすればいいの……?
「ナタリー様……」
縋るような声が出た。
万能な能力ではないと言っているナタリーが、どういう未来を見ているのかは分からない。
お飾りの寵妃になることはナタリーにも話していないのだが、それさえも知っているのかどうか分からない。
ナタリーはイオアンナ妃の背中を優しく擦るだけで何も言わなかった。




