下賜品の行方
後宮は、うっすらと紫に霞み暮れなずむ。
イーストガーデンの遊歩道で足を止めた皇帝は、遠くに見える妃達の宮を見つめた。
本来、皇帝を宿泊専用の宮へ案内するのは、イオアンナ妃の宮を管理するノーラン侍従の役目だった。
しかしこの日は、マルクス侍従も同行していた。
皇帝がマケイラ妃を現在の宮から追い出し、そこに新たな寵妃としてイオアンナ妃を据えるという、大規模な『宮替え』を画策しているからである。イオアンナ妃をそこへ移すことで、彼女を名実ともに新たな寵妃として認めさせる狙いなのだ。
その根回しのために、この二人の侍従が同行していたのである。
「後宮での様子はどうだ。イオアンナは際立ってきたか?」
ノーラン侍従が頷いた。
「はい。やはり陛下の一存で召し上げられましたので、古参のお妃様方も一目置いておられます」
「なるほど。マケイラの方はどうだ?」
皇帝はマルクス侍従に目を向けた。
「相変わらず閉じこもっておられるので、今さら動くことはないと思いたいのですが……」
マルクス侍従は、不確かなことを報告する質ではない。
しかし、どうにも納得いかないという顔だ。
「何だ?」
「大したことではないのですが、ワインの消費量が減っています。これまでは泥酔していたので思考が働いていませんでしたが、何かを企むのではないかと……」
「ふむ……」
マルクス侍従は、常に懐に入れてあった金属製の容器を取り出して皇帝に見せた。
「陛下。これを……」
「これは解毒剤か?」
皇帝は怪訝な顔で訊いた。
「はい。陛下がナタリー様に下賜なさった解毒剤です」
「なぜお前がこれを?」
「ナタリー様から渡されました。ナタリー様の予見では、私が毒によって命を落とすと。しかし、正確な日付や犯人は分からないので、常に持っていろと言われたのです」
「なるほど。ゆえに、マケイラが動くかもしれぬと」
「そこは断言できませんが……。疑わしいとは思っています」
話を聞いていたノーラン侍従が「しかし……」と呟いた。
「なぜマルクス侍従が毒死する未来なんでしょうか。陛下に毒見役がついていない時は我々が毒見をすることになりますが、マルクス侍従が毒見をするのは、陛下がマケイラ様を指名なさった時では?」
そう言われて、皇帝とマルクス侍従は同じことを考えた。
神殿でナタリーと密会した際、マルクス侍従が毒見をしていたのだ。
では、皇帝に毒が盛られるのだろうかと。
「思うことは多々ありますが、私はナタリー様から解毒剤を持たせていただきましたので、一先ず様子を見ています。マケイラ様に怪しい動きがあれば、また報告させていただきます」
「うむ。マルクスはもう戻っていいぞ」
「ありがとうございます」
マルクス侍従が去るのを見届けてから、皇帝は背を向けた。
「イオアンナはもう到着しているのだな?」
「はい。その筈です」
イオアンナには、お飾りの寵妃となってもらうことを初めて指名した日に伝えている。
ナタリーと親密なイオアンナは「マケイラ様を牽制すれば、ナタリー様を守れるのですね」と冷静に答えた。「命の恩人のためなら、矢面に立たされても構いません」と。
マケイラ妃のように必死に寵愛を乞うたり、計算高い言葉を並べられては辟易するが、嘘も計算もなく友人のような関係でいられるイオアンナとの会話は心が安らいだ。
皇帝は一度「お前は寵愛を求めないのか?」と訊いたことがある。
ナタリーの話ばかりで全く気を引こうともしないイオアンナの態度が、皇帝には新鮮だったからである。
「偽りの関係ですが、求めたほうがよろしいですか?」
そう訊き返された時、ナタリーのためにこの役目を引き受けたというのは本心だったと確信した。
表向きにはナタリーのためだと言いつつ、密かに権威を狙ってはいないかと疑っていたのだが、それも役目でしょうかと訊きたげな純粋な目で見つめられると、イオアンナを信じるしかなかった。
「陛下。ご指名ありがとうございます」
宮に着くと、イオアンナが敬礼で出迎えた。
座卓には既に、酒と料理が並べられている。
皇帝が寝椅子に腰掛けると、イオアンナがノーラン侍従に目で合図した。
ノーラン侍従は、皇帝が呑むワインの毒見をするため、カップを拭き始める。
「イオアンナ。最近、ナタリーから予言されたことは?」
「いいえ、ありません。ナタリー様は予言されることをあまり好みませんから」
「それはなぜだ?」
「例えば十年後の最悪な未来を予言したとします。人々はそれを避けようと動くので未来は変わり続けるらしいのですが、ナタリー様は何十年も先まで見えていらっしゃるから、未来を変えてしまうと変わった部分を見つけるのが大変なのだそうです。避けたかったはずの未来が、結局、避けられなくなるかもしれないと……。私には分からない感覚なのですが、未来を見るのは記憶をさかのぼるような感覚なのだとか」
そう言われて、皇帝はナタリーと初めて話したときのことを思い出した。
確かに、二十年前のことを思い出すような感覚だと話していた。
「では、お前に訊くが、もしこの後宮でお前に毒が盛られたら、毒を口にするのは誰だ」
「私には毒見役がおりませんので私でしょう」
「マケイラならどうだ」
イオアンナは少し考えた。
「おそらくですが侍女か女中だと思われます」
「では、私ならどうだ」
「陛下が……後宮にお見えになった場合ですよね?」
「そうだ」
イオアンナは、ようやく毒見が終わり皇帝にワインを注ぐノーラン侍従を一瞥した。
「今なら、ノーラン侍従ですね」
ノーラン侍従は一瞬手を止めたが、同意だと言わんばかりに頷いた。
「やはり、そう思うか……」
今さら、マケイラ妃を指名するつもりはないので、この場所でマルクス侍従が毒見をすることはないと思っている。
では、マルクスが毒を口にするのは神殿だろうか……。
しかし、凶事を避けることで、さらなる予見が困難になるということは、つまりナタリー以外は未来を知るべきではないのだろう。
想像していたよりも厄介な能力だなと皇帝は思った。




