火事
ナタリーが妃候補となって、七度目の冬がきた。
アトリウムの水盤は凍りつき、冷たい風に肩を震わせる女中達は、ショールをすっぽりと頭から被って「寒い寒い」と言いつつ廊下を移動している。しかし、その足取りは心なしか軽い。
今日はレブラーン帝国最大級のお祭り、農神祭の日なのだ。
帝国神殿が祀っているのは戦神だが、五穀豊穣を祝う農神祭は宮廷でも楽しまれる。
この祭りは、主人が従者にご馳走を振る舞い、従者は酒を呑んで賭博に興じたりと、どんちゃん騒ぎが許される日なので、仕事を早く終えて解放されたい者らは朝から浮足立っているのだ。
後宮の食事は後宮の厨房で作られるが、この日の夕食だけは宮の主が自費で賄うことになる。
毎年のことなので、後宮監督官は妃達が注文する食事の一覧表を作成しており、前もって選んでおけばそれに対応してくれる仕組みである。
ナタリーの宮は、七年前の反乱と女中虐殺事件以降、侍女のゾーイと女中が一人の小所帯で長らく過ごしていたが、一月前、皇帝から毒見役の青年トリフォンが遣わされた。
毒見役トリフォンは大きな体躯を自慢して「少々の毒なら持ちこたえる自信があります」と、初見の挨拶で言っていたが、ナタリーは未来を知っている。
彼が毒で死ぬことはない。
私に毒見役は必要ないのに、と思いつつも、妃候補の宮には、正式の妃らのように専属の侍従と小姓はいないので、重いものを運んでくれる男手はありがたかった。
夕刻になり、それぞれの宮の戸口には、月桂樹の枝を輪にしたリースが飾られ、廊下のキャンドルには火が灯されはじめた。
ナタリーの宮では、ゾーイと女中が厨房から受け取ってきた料理をテーブルに並べはじめていた。
しかし、料理は足りるだろうか、とナタリーは不安になった。
毒見役トリフォンは決して太っているわけではないのだが、ナタリーがこれまで一緒に食事をしたことがある男性は義父だけなのだ。青年の食事量など分からない。
力もあるし、たくさん食べそう。
そう思いつつ、ナタリーは毒見役トリフォンを見つめていた。
彼は、ゾーイと女中が二人がかりで運ぶ鉄製の火鉢を、一人で軽々と運んでいる。
すでに一つの火鉢で炭を熾しているのだが、皆が一箇所に集まるので、気を利かせてもう一つ運んできたのだろうと思っていた時、ナタリーは何かが引っかかった。
農神祭。
毒見役トリフォンがいる。
火鉢。
「大変だわ!! 今日だった!!」
ナタリーはすでに予見していた膨大な情報の海から、答えを見つけた。
「ゾーイ!! 後宮監督官に近衛兵をイオアンナ様の宮に派遣するように伝えてきて!! 二人は付いてきて!!」
指示しつつ、ナタリーは宮を飛び出していた。
三人とも、ナタリーがなぜ慌てだしたのか分からなかったが、ゾーイは分からずとも動き、あとの二人に「早くナタリー様を追いかけて!!」と怒鳴った。
妃候補イオアンナの宮は、アトリウムを挟んだ向い側にある。
道すがら、追いついてきた女中に、アトリウムの水盤の氷を割っておいてと指示した。
薄氷ではないが、硬いもので叩けば氷が割れて水が使えるようになる。
ようやくイオアンナの宮に辿り着くと、ちょうど居室で火の手が上がったところだった。
火事である。
居室には、イオアンナと女中が居た。
火鉢は脚付きの大きな皿のような形をしている。その脚に、女中が足を引っ掛けてしまい、毛氈に炭の火が移ったのだが、慌てたことでテーブルにあったオイルランプを落としてしまい、毛氈が瞬時に燃え盛ったのだ。
「トリフォン!! 水甕を持ってきて!!」
ナタリーは寝室との境に掛けられていたカーテンを引きはがし、トリフォンが運んできた水甕に浸してから、火柱の向こう側にいるイオアンナに向かって投げた。
その間にも、壁掛けに燃え移った火は勢いを増していく。
トリフォンが水甕に残っていた水を毛氈に撒いて逃げ道を作ると、イオアンナと女中はナタリーが投げたカーテンを被って避難した。
ようやく宮から飛び出た時は、近衛兵らが到着しており、すでに氷が割られていた水盤から水をすくって消火活動に当たりはじめた。
「ナタリー様、ありがとうございます。おかげで助かりました」
イオアンナは水浸しのカーテンを脱ぎ、頭を下げた。
「いいえ、当然のことをしたまでです」
イオアンナはナタリーと同い年だった。
ミルクティーのような色の長い髪は、煤で黒く汚れている。
「しかし、なぜ私の宮へ……」
親交があるわけでもないのに、と顔に書いていたが「いえ、助けていただいた身で失礼なことを訊いてしまいました」と、再び頭を下げた。
ナタリーは、つい頬が緩んだ。
言葉を交わしたことがなかったのでイオアンナの人柄を明確に知ることは出来なかったのだが、彼女の振る舞いから想像していた人物像は外れていなかった。手が震えているのに、イオアンナは安定した正しい姿勢を保ち、一定の息を吐く話し方で声も震えていない。
弱みを見せまいと気丈に振る舞う者はいくらでもいるが、声のトーンまで抑えられる者は稀だ。忍耐力と自己制御力が極めて高いのだ。
「気にしないでください。怖かったですよね」
ナタリーが抱きしめると、イオアンナはナタリーの肩に顔を埋めて無言で頷いた。
「実は私がここへ来たのは火事を予見していたからなんです」
そう言うと、イオアンナは顔を上げた。
「それは……アサイ族の能力だとか噂されている……?」
「はい。しかし、万能ではないのです。火事が発生する前に視えればよかったのですが、間際になってしまい申し訳ありません」
「いいえ、ナタリー様が謝るようなことでは……」
イオアンナは続きの言葉を忘れてしまったかのように、ナタリーの顔を凝視してから下を向いた。体が震えている。安心したことで泣き出してしまったのかと顔を覗き込むと、イオアンナは「申し訳ありません」と前置きして失笑した。
先程抱きしめた時、イオアンナの髪に付いていた煤が、ナタリーの鼻の下に付いてしまっていたのだ。それがうまい具合に口ひげのようになっていたので、ナタリーが話している間は絶対に笑ってはいけないと思って堪えていたのだが、ナタリー自身は気付かずに真面目に話しているのがことさら可笑しく、イオアンナは自分が口を開いた瞬間に、もう堪えきれなかったのだ。
忍耐力と自己制御力とは。
苦痛やストレスに強く冷静さを保つ力はあっても、笑いには弱いのだ。と、ナタリーは一つ学んだのであった。




