皇帝の下賜品
皇帝が後宮を訪れてから一月あまり、マケイラ妃は宮から出たことがなかった。
誰かに告げられたわけでもないが、後宮中の皆が「皇帝に捨てられた」と嘲笑っている気がして人目につきたくなかった。
自分に落ち度があったことは認めるが、これまで皇帝に何やら思うところがあっても面には出さず、心を抑えて尽くしてきたのだ。そうやって長年溜まり続けた澱が、心の深いところで淀んでいる。
あれしきのことで捨てられるなど、決して許せなかった。いかなる手段を使ってでも、寵愛を取り戻さなければと思った。
しかし、謝罪の書簡を送ろうにも筆は進まない。非を書き連ねた胡散臭い文章になったり、或いは希薄な文章になる。それらを修正するうち、終には不平不満が透けて見える文章しか書けなくなり、とうとう書簡を送るのはやめた。
待つばかりでは皇帝の足は向かぬというのに良案がない。
悩みあぐねるうち、日毎ワインの消費量が増えた。明けても暮れても、侍女長かイザヤがワインを運んでくるだけの日々。
そんなある昼下がり、いつものように追加のワインを運んできたイザヤから報告があった。
「何ですって!? 下賜品!?」
口をつけようとしていたカップをテーブルに置くと、思いのほか勢いが強く、ワインが飛び散った。
後宮監督官の執務室に、皇帝からナタリーへの下賜品が届けられたと言うのだ。つい先程、後宮監督官とマルクス侍従がナタリーの宮に、それを届けに行ったと。
皇帝からの下賜品は、通常、夜伽を務めた妃に贈られるもので、妃候補に贈られた前例はない。
「陛下はいつ後宮に来たの!?」
「いえ。夜伽の報酬ではありません。記録を見ましたが、陛下はマケイラ様をご指名なさった日以降お見えになっていません」
そう言われて、マケイラ妃はようやく思い出した。
下賜品と聞いて夜伽の報酬だとばかり思い込んでいたが、妃候補には夜伽を命じることができないと決められている。
それは、候補者達の人権を尊重しているものでもあった。
所詮、後宮は皇帝専用の娼館なのだ。正式に妻と認められるのは皇后のみで、寵妃になっても後宮に関するあらゆる権限などは一つも握らせてもらえない。
これらを理解した上で、皇帝専属の娼婦になるかどうかを皇妃栄進の内示の際に問われるのだ。つまり、まだ候補者のうちは性的奉仕となる夜伽を命じることができない。妃候補に下賜品が届けられた前例がないのは、夜伽の役目につくことがないからである。
ならば、なぜナタリーに下賜品が届くのか。
マケイラ妃が何かをねだっても頑なに与えぬ陛下が、ナタリーには一体何を下賜したというのか。
「その目録は見たの?」
イザヤは言い淀んだ。
「申し訳ありません。報告を急ぐあまり……」
イザヤが最後まで話すのを待たず、マケイラ妃は立ち上がった。
足を向けたのはナタリーの宮である。
ワインのせいでもあろう。いつもならば起こし得ぬ行動を起こしていると分かっていたが、どうしても許せなかった。自然と早足になった。踏みつける床さえ憎かった。
「マケイラ様!! お待ちください!!」
宮を出る時にすれ違った侍女長が追いかけてきた。
「人目につきます!! お戻りください!!」
イザヤも侍女長に促されて追いかけてきた。
もう、人目などどうでもいいと思った。夜伽の報酬以外に何かを贈っていただくのは、とても困難だったのだ。
私には安価な市井の菓子でさえ手配してくださらないのに、なぜ……。
十年も寵妃としてお仕えしたのに、たかが妃候補に容易く下賜品を贈るなど、酷い裏切りだとしか思えなかった。
「え……マケイラ様?」
強引にナタリーの宮に押し入ると、侍女のゾーイが驚愕に目を見張り、居室のソファに腰かけていたナタリーは咄嗟に立ち上がった。
サイドテーブルに、頑丈な造りの樫の箱が置かれている。
つい先程受け取り、そこに置いたのだろうという配置から、それこそ下賜品であると本能的に悟った。
怒りなのか、悲しさなのか、胸から込み上げてきた熱が喉元に留まった。
何かの間違いではないかと僅かな期待を抱いていたのに、下賜品が目の前にある。
マケイラ妃は思わず箱を取り上げた。
「何をするんですか!? 返してください!!」
ナタリーが声を上げた時、ようやく追いついたイザヤと侍女長が駆けこんできた。
「マケイラ様!! 問題になります!! 戻りましょう!!」
侍女長はマケイラ妃をなだめつつ、イザヤに目で合図した。
イザヤは樫の箱を取り返そうとしたが、大人しく返してやる筈がない。中身を確かめねば気が済まない。邪魔だてするイザヤを振り払って蓋を開けると、それは抜け殻であった。綿が敷き詰められた上にはサテンが敷かれており、手のひらに収まる大きさの形に中心が沈んでいる。割れものか或いは高級品が、つい先程までここにあったのだ。
「何をいただいたの!?」
声を上げると、涙が込み上げてきた。ただし、涙はこぼすまいと歯を食いしばった。
「マケイラ様に答える必要がありますか?」
「お前っ!! 候補の分際で……」
咄嗟に手を振りかざすと、イザヤが間に入って制止した。
「マケイラ様!! 妃の立場を弁えてください!! 手を上げてしまえば……」
「上げてしまえば何なのっ!? ならばお前が聞きだしなさい!! 十回も打てば口を割るわ!!」
「いやっ……しかし、それは……」
明らかにイザヤの顔色が変わった。
侍女のゾーイはナタリーを数歩退がらせてイザヤの前に立ちはだかっている。
「いつもミアを打ってるでしょう!! たかが候補に怖気づくの!?」
「しかし……」
「お前の主人は私なのよ!! 私に従いなさい!!」
イザヤはナタリーとゾーイを一瞥した。
ゾーイは頭を振って、目で「ダメ」と訴えている。
「早くしなさい!!」
そう声をあげたとき「いけません!!」と入口から太い声が聞こえて振り返った。
そこに居たのは、マルクス侍従と後宮監督官であった。その後ろに、申し訳なさそうな顔をした侍女長が立っている。自分達だけでは収拾がつかなくなると判断した侍女長が、こっそり二人を呼びにいったのだ。
「お前っ……!! この裏切り者!!」
そういえば侍女長は、かつて出世のために元主人を毒殺したのだと思い出した。
まさか自分が裏切られるとは。
「裏切るどころか助けてくれたとは思わないのですか。女中を折檻するのとは、問題の大きさが違います。この件は陛下に報告させていただきますが、ナタリー様を傷つけなかったことが幸いでしょう。もし傷つけていれば追放では済まなかったかもしれませんよ」
「何ですって……? 追放……?」
頭の中に強く残った言葉を、つい復唱していた。
皇帝とナタリーに接点などあっただろうか。いや、知らなかっただけで、あったのだろう。
いつ? 十年も仕えた私を追放するほどの関係とは?
侍女長とイザヤに支えられてからのことは、よく覚えていない。
どうやって宮に戻ってきたのか、一人ワインを浴びていると、それまで堪えていた涙が溢れてきて止まらなかった。




