毒殺の危険
マルクス侍従は、ゾーイを側に置いて飲みものの準備を始めた。
毒の混入を防ぐため、内廷には皇帝専属の飲みもの係と毒見役がいるのだが、彼らがいない場所では侍従がその役目を請負うことになる。それは侍女とて同じで、貴人の侍女ともなれば、主の口に入る物には神経を尖らせねばならない。
マルクス侍従は、鮮やかな赤い光沢を放つカップを布で念入りに拭き、その布で常に所持している銀棒を拭いた。
毒は様々あるが、飲食物に最もよく使われるのが無味無臭のヒ素である。
もし食器にヒ素が塗られていれば、銀棒は十秒も経たぬうちに黒く変色する。変色が認められなければ、他の毒が混ぜられていないか飲みものの臭いを確かめる。
毒臭をいくつか覚える必要があるが、他の毒は、カビ臭かったり、目に刺激を感じるような不快な臭いばかりなので、それはさほど難しくない。
セミル大神官が用意したのは、聖なるハーブと言われるカモミールを混ぜたワインの水割りだ。
飲みものを注いだ後も銀棒で確かめておく。
そして、最後に自分自身で毒見する。
マルクス侍従は、毒見役はいつもこのような恐怖の中で食事をしているのだろうかと思った。
臭いのある毒は、味の濃い料理に混ぜられると判別が難しい。風邪などで嗅覚が鈍っている時は迷いが生じるので、吐き出さずに飲み込んでしまうこともある。少量ならば命は助かるという教えだが、二、三年に一人は亡くなっているのだ。一口含んだだけで神経が過敏になり、胃の中が熱くなった気もするし、血の気が引いてきた気もする。
そんな状態の中で砂時計を五回見守って、嘔吐などの消化器症状が現れなければ、ようやく皇帝に飲みものを出せるのだ。
マルクス侍従は、二度目の砂が落ちるのを無心で見つめていた。
皇帝とセミル大神官の話している声が、近くで響いているのに遠くにあるような感覚で、会話の内容は頭に入ってこない。
ふと「こんなこと習っていません」と三人の会話の邪魔にならぬように囁いたゾーイの声だけが耳に残った。
「それは当然だ。たかが妃の侍女教育では教えない。陛下の御子を身籠った時に、ようやく教えることだよ」
上の空ながらもマルクス侍従は答えていた。
「ではマケイラ様の侍女も習っていないのですか?」
「勿論」
「寵妃なのに? 寵妃なら、嫉妬などで毒殺の危険がありそうですが、教えないのですか?」
「寵妃と言えど、妊娠していない点では他の妃と変わらないだろう」
ゾーイは、うーんと唸った。
「毒見の教育がそれほど特別なら……。私は見てしまいましたが問題ないのですか?」
「問題ない。君は毒見教育を受ける権利があると陛下が判断した。妃の代わりは大勢居るが、予言の能力が発現したナタリー様は唯一無二の存在なのでな。しばらくは毒の種類を学んでもらうことになる」
答え終わると、マルクス侍従は安堵の息を吐いた。
砂時計の時間が終わったのだ。
ようやく皇帝に飲みものをお出しすると、ナタリーとセミル大神官にはゾーイが供していた。
「しかし、不思議だな」
皇帝が意味ありげに呟いた。
ナタリーとセミル大神官は言葉の続きを待っている。
「未来を見通せるならば、今日のことは分からなかったのか?」
ナタリーは自分が問われていると分かったが、答えに詰まって目を泳がせた。
「……今日のこととは、今こうして陛下にお会いしていることですか?」
「そうだ。マルクスには私が呼んでいることは伏せろと命じた。もしや予見しているかと思ってな。しかし、お前は私を見て驚いた。今日のことは分からなかったのだな」
「いいえ、事実を言えば知っていました」
「そうは見えなかったが」
「今日のことは……例えば二十年前の出来事を思い出すような感覚なのです。陛下のお呼びがあることは分かっていても日付は分かりませんし、会話の内容も印象深いことしか思い出せない感じだと言えば伝わるでしょうか……」
皇帝は椅子の背もたれにもたれると天井を見つめた。
二十年前、皇帝は齢十二である。
まだ父が健在で皇子の身分であった年齢だが、割礼式をした年だと思い出した。
確か、兄が齢十で割礼を執り行い命を落としたので、二年遅らせた割礼式だった。
思い出せるのはそれくらいで、割礼式で父が何を話したか、その日誰と会って誰と話したか、そういえば日付さえも記憶にはない。
「なるほど。二十年前を思い出せと言われれば確かに困難だ」
皇帝が呟くと、セミル大神官は「私はさっぱり思い出せません」と苦笑した。
「しかし、私はまだお前の能力を疑っている。証明することは出来るか」
皇帝が問うと、ナタリーは遠慮がちに首を傾げた。
「何だ。今の問いがおかしいか」
「いいえ、問いがおかしいとは思っていません。ただ……」
ナタリーは口ごもった。
口にすべきかどうか悩んでいる。
「何だ」
「失礼な発言をしますが……。陛下は私の能力を全く疑っていない筈です」
マルクス侍従は動揺した。
ナタリーは「失礼な発言」と前置きしたが、皇帝の言葉を否定するとは大胆過ぎると思ったのだ。傲慢な性質を持っている皇帝は、否定されれば怒ることもある。すべて皇帝の機嫌次第だが、その機嫌を巧みに操るマケイラ妃でさえ、今のナタリーのような言い方はしない。
平穏無事でいられるだろうかと身構えていると、皇帝は少し悩んだ素振りを見せた。
「何故、そう思った?」
案外、皇帝の声は穏やかだった。
機嫌は損なわなかったらしい。
「確か……私のために解毒剤を作らせている筈では?」
滅多に声を上げて笑わない皇帝が「負けたよ」と笑った。
セミル大神官も、マルクス侍従も、皇帝の笑顔に少し驚いたが、難しい顔をしている時は空気が張りつめるので、肩が軽くなった気分であった。
「それで私の好意はお前の役に立つのか?」
解毒剤のことである。
つまり、未来、ナタリーが毒殺の危険に遭うかどうかを訊きたいのだろう。
「それにはお答え出来ません。セミル大神官にもお伝えしましたが、遠い未来を予言すれば、必ず未来が変わります」
「今度は私の勝ちだな」
「どういう意味ですか?」
「遠い未来は予言出来ぬなら、近い未来は予言出来るのだろう。しかし何も言わないということは、近い未来には毒殺の心配はないということだ」
「あ……!!」
ナタリーは失言したことに気付いて、塞がらない口を手で覆った。




