寵妃の転落
その日、マケイラ妃は皇帝の御召に満悦し、体を磨いて専用の寝室がある宮に向かった。
寝室には天蓋付きのベッドが置かれ、窓際には寝椅子と、座卓が配置されてある。
マルクス侍従は、皇帝が宮に到着すると、寝室に食事と酒を運び込んだ。
夜が更けるまでは酒を呑んで談笑するのが通例である。侍従は退室を命じられるまで、皇帝の側で酒を注ぎ、それが足りなくなれば手配させ、果物が食べたいと命じられれば皮を剥く。
妃であれど御前で刃物を持つことは許されぬので、それが許される侍従は皇帝の信任が厚いということである。
この日も「ナシを剥いてちょうだい」と言ったマケイラ妃のために、マルクス侍従は果物ナイフで皮を剥いていた。
本来、マケイラ妃の世話をするのは侍女である。
この場は仕方ないことだと言えど、マルクス侍従は彼女に使役われるのが不愉快だった。
マケイラ妃も一昔前は皇帝に頼んで皇帝がマルクス侍従に命じるという順序を守っていたのだが、寵妃と呼ばれるようになった頃から、それを軽んじる節が見え隠れする。彼女自身に権力は無いのに、寵妃というだけで、まるで皇帝と同等の権力があるかのような振る舞いが見え始めたのだ。
少年の頃から努力を積み重ねて現在の地位があるマルクス侍従にとっては、マケイラ妃など受容しがたい妃でしかなかった。
「マケイラ。アサイ族の妃候補が事故に遭った話は聞いているか?」
「ええ、勿論存じ上げております。セミル大神官が誤って花瓶を落としたところ、階下に居た彼女に危うく当たってしまうところであったと」
「ほう。詳しいな。私は詳細を知らぬのだ。誰から聞いた?」
マルクス侍従は、思わずナイフの手を止めた。
「さて、誰だったかしら……。覚えていないけれど、おそらく神官であったかと」
寝椅子で片膝を立ててクッションにもたれかかっている皇帝の顔は、その隣に座っているマケイラ妃からは見えていない。
皇帝の鋭い視線が、マルクス侍従の止まった手を指している。反応するなと言われた気がして、マルクス侍従は再びナシの皮を剥き始めたが、マケイラ妃は失言したなと思った。
ナタリーの事故は、前回の儀式日から数日後だったのだ。
会ってもいない神官を騙ったのは間違いだ。
さも神殿で聞いたかのような発言は、これまでの皇帝には通用したが、今となっては平然と偽りを述べた女でしかない。
「最近、神殿に行ったのか?」
「いつであったか覚えていませんが、最近と言えば最近ですわね」
「そうか」
皇帝は鼻で笑った。
マルクス侍従は嫌な予感がするなと思った。
マケイラ妃は雲行きの怪しさに気付いていないが、この空気を変えねばと思い、ナプキンの上に果物ナイフを置いて、素早くナシを盛りつけた。
「ナシが剥けました。どうぞ、お召し上がりください」
皿に並べたナシをマケイラ妃の前に突き出した瞬間、皇帝は果物ナイフを手に取って、木製の座卓に突き刺した。その勢いで酒の入ったグラスは倒れ、皿から飛び出た一切れのナシが座卓の上を転がった。
「へ、陛下……?」
まるで理由が分からないマケイラ妃は、仰け反って皇帝を凝視している。
警戒心の現れか、胸の前で握った拳は力んでおり、怯えた目は皇帝の次の行動を探っていた。
皇帝は無言で立ち上がった。
その足で寝室の扉へ向かうと、勢い任せに扉を押し開け、その場から立ち去った。足音から皇帝の怒りを察するのは、誰からも容易なことであった。
マルクス侍従は、しばし呆然としたが、直ぐに我に返って、扉の前を守っていた近衛兵に寝室の後始末をイザヤと侍女に任せるよう指示すると、急ぎ皇帝の後を追った。
まだ夜は更けていなかったので、料理を運んできた小姓と廊下ですれ違った。宮から門までの道のりでも、幾人もの侍女や女中の姿を見た。
マケイラ妃が皇帝の不興を買ったという噂は、日付の変わらぬ内に後宮内に広まった。
常に退屈な女達にとって、これは大事件とも言える新報で、皇帝を怒らせた理由を知りたがる者や、マケイラ妃の先行きを知りたがる者らで、その日は就寝時間を過ぎても後宮はざわめいていたが、いずれにせよマケイラ妃を案じる声は、建前しか上がらなかった。
他の妃にしてみれば、皇帝の寵愛を独占していたマケイラ妃が転落すれば、自身に機会が訪れるやもと思うのも無理からぬこと。また侍女や女中にしても、マケイラ妃に仕えている者の傲慢さに耐えていたので、やはり革新を期待する。
寵妃と持て囃されて高みに立っても、隙を見せれば足を引っ張られて転落するような座が、マケイラ妃の死守するものであった。
マケイラ妃は今年で齢三十になるのだ。
齢二十の時に寵をいただき既に十年経つが、一度も妊娠したことがない。
二年が経過した頃に、子を授からぬ原因は自分なのか皇帝なのかと悩んだことがある。
しかし、自分が原因であれば御召が無くなると思い、必死に寵愛されるよう努め、皇帝を他の妃の元へ通わせなかった。
そんなマケイラ妃のことを皇太后が好む筈がない。
孫を心待ちにしている皇太后は、妃の数を増やしたが、皇帝の心は傾かなかった。
それに安堵していた四年目、他の妃に妊娠の兆候が見えた。
それを報せてくれたのは現在マケイラ妃に仕えている侍女長である。
侍女長は、当時、その妊娠した妃の侍女であったが、出世と引換えに主人のお茶に毒を入れたのだ。
その妃は妊娠したことも知らぬまま、この世を去ったのである。
不妊の原因が自分であったと知ってからは、益々努力して皇帝を手放さなかったが、今年で齢三十二になる皇帝に未だ皇子がいないのは問題となっていた。
そろそろ皇帝を繋ぎとめるのは限界だが、もし誰かが皇子を産んでも、寵妃のままでいられればと考えていた矢先に、今回の事件が起こったのであった。




