秘密
ナタリーが入宮して、三度目の春が訪れたある日、皇太后がアトリウムに妃と妃候補を集めた。
「この度、クロエが正式に皇妃になります」
皇太后が「クロエ」と呼ぶと、呼ばれた彼女は前に出て皇太后に敬礼し、二十三名の皇妃にも一礼した。
かつての女中虐殺事件は皆の心に深傷を負わせたが、故に、この人生の転機が護身の術であるとも気付かせていた。
新たな皇妃の姿は高潔さに満ちていた。まるで脱皮したての蝶のように、美しい羽を広げる瞬間を待ちわびている姿だった。
ゾーイはその夜、兄といつも出会う後宮の外れに行った。
兄妹は、一月に一、二度、職務を終えた夜に密会を続けている。
「どうすれば、妃になれるのかな……。ナタリー様は皇太后陛下が後見人なのに、他の方が先に選ばれるなんて……」
「そうだな……。皇帝陛下に寵愛されれば話は簡単だが、それ以外だと、政治的なしがらみが入ってくるか、あるいは後宮監督官に気に入られるか……」
後者の望みは絶望的だと、二人とも知っていた。
後宮監督官は、私情に流されるような男ではない。真面目で頑固な性格である。
そういう男だからこそ、彼の推薦には発言力があるのだが……。
「まぁ、ナタリー様なら、焦らなくても大丈夫だろう。お前と一緒の年齢だから、今は十八か。まだ七年もある。それまでに皇太后陛下が何とかする筈だ」
「そうよね……」
頷いたゾーイは、実感の湧かない顔だった。
「それより、最近どうだ? 変わりはないか?」
「特にないかな……兄さんの方は?」
イザヤは腕を組んで「うーん」と唸った。
「こっちも、これと言って何もないな。些細なことまで挙げるとしたら、元同僚が辞めたことくらいか……」
「元同僚ってホセ侍従の小姓?」
「ああ。俺はマケイラ様に取り立てられて幸運だったよ。ホセ侍従のところは辞める者が多いと最近聞いたところだ。平民しかいないところだし、出世した奴はいないらしい。夢見がちな奴ほど、辞めていくって聞かされたよ」
そう話しつつも、イザヤは不意に疑義の念を抱いた。
ホセ侍従の下に居た小姓は、イザヤを含め六名だった。全員、覚えている。
退職した小姓は野心のあるような男だったか?と、不思議に思ったのだ。
「ふーん。小姓も私達と同じように苦労するんだ」
「ああ、まぁ……」
イザヤが生返事をすると、ゾーイが顔を覗き込んだ。
「聞いてる?」
「ん? 聞いてるよ」
既に去った元同僚のことを考えたところで無意味である。
三年も経てば人は変わるだろう。
「本当に?」
「聞いてたよ。ああ、そうだ!! 忘れるところだった」
イザヤは懐から取り出した指輪をゾーイに渡した。
「これは何? どうしたの?」
「先日、使いを頼まれて街に出たんだ。土産にと思って買ってきた」
マケイラ妃が市井で大評判となった菓子の噂を耳にしたらしく、買ってこいと命令されたのだ。
デニスとハリを同伴させて目当ての菓子を入手したついでに、後宮監督官とマルクス侍従にも土産を買ったので、その帰路で装飾品の露店に立ち寄った。
以前、ゾーイに高そうな服を着るようになったと言われたのが、イザヤだけ贅沢をしていると言われた気がして心に引っ掛かっていたのだ。
高貴な方々が持っている金製ではなく鉄製だが、大きめの紅玉髄が嵌め込まれてある。その露店で一番高い品であった。
「え!? こんなに高そうなもの……何かのお祝いみたいね」
「嬉しいだろ?」
「うん、綺麗。ありがとう」
ゾーイは、指輪を左手の中指にはめて喜んだが、それはイザヤの予想とは違っていた。
もっと幼い時、空腹のゾーイのためにパンを持ち帰った時のような喜びを期待していただけに、物足りなさがあった。
「また外出する機会があれば、今度は別の物を買ってくるよ」
「そんな……いいわよ。私は別に……」
言いかけたところで、ゾーイは耳を澄ました。
風が木々を鳴らす音に混じって、近付いてくる足音がある。
ゾーイは手振りで「こっちから去る」と告げると、足音とは反対の方角へ走った。
イザヤは、あえて足音の鳴る方角へ歩いた。
建物の角で鉢合わせたのはデニスであった。
「デニスじゃないか。こんなところで何してるんだ?」
自分が怪しい時は、相手を不審人物に仕立て上げるのが良策である。堂々としていれば疑われることはない。そう思って先手を打ったが、デニスの話し方は歯切れが悪かった。
「え? あ、いや……。別に……イザヤこそ、何してるんだ?」
デニスは辺りを気にして、落ち着きがない。
想定外だが、彼こそ不審であった。
「俺は散歩だが……どうした? 何か怪しいぞ?」
「いいや、怪しくない。俺も散歩。ところで、さっき誰か居なかったか?」
咄嗟に言い繕ったのが分かった。
「ああ、どこかの侍女がいたから、すれ違うときに挨拶をしたが……デニスこそ本当は何を?」
「本当に散歩だ。気にするな」
目を合わせないので、デニスが何かを隠しているのは明らかだったが、差し迫った様子ではなかったので黙認することにした。
おそらく、くだらない私事に違いないと思ったのだ。
その秘密を知ることになるのは、それから十日も経たぬ頃、イザヤが後宮監督官から受け取ったキャンドルを運んでいた時であった。
「重そうだな。手伝うよ」
廊下で出会ったデニスが、二袋のうち、一袋を引き受けた。
体格のいいデニスにはキャンドルの重さなど苦にならないらしく、軽々と持ち上げる。
一月分の量を、往復するのが面倒で一度に運んでいたので、ありがたい助けだ。
「ところでイザヤ。この前の夜だが……」
デニスは言い淀むと、決心して口を開いた。
「お前……ナタリー様の侍女と会ってたんじゃないか?」
確信を持った言い方だった。
イザヤは困惑しそうになったが平常心を保った。
「ああ。侍女とすれ違ったと言っただろう。それがどうかしたか?」
「すれ違ったんじゃないよな。会ってたよな?」
脅迫めいた響きがあった。
狼狽した様子は見せまいと思ったが、デニスの目的が分からないと逃げ口上さえ浮かばない。
「……だとすれば?」
面倒事になりそうならば、前言撤回で密会は否定するつもりであったが、デニスは恥じらった様子で声をひそめた。
「彼女と……恋仲なのか?」
「は?」
あまりにも想定外の問いで、イザヤの思考は一瞬停止した。
身構えたのが馬鹿らしく思えたが、落ち着いて反芻してみれば、とんでもない事を訊かれている。
イザヤは唇を舐めて、口を開いた。
「デニス。お前……。まさかとは思うが……。彼女が好き……なのか?」
「お前っ!! 声がでかい」
デニスは狼狽え「誰かに聞かれたらどうするんだ」と、辺りを見回した。
どうやら正解らしい。
「しかし、なぜ恋仲だと?」
「あの日、彼女が出て行くのが見えたから後を尾けたんだが……」
「後を尾けた? 気持ち悪いぞ」
イザヤが軽蔑した眼差しを送ると、デニスは「夜も更けてたから、心配だったんだよ!!」と慌てた。そして「まぁ、いい。最後まで聞け」と咳払いした。
「だが、途中で見失った。そこで彼女が向かった辺りを探してたら話し声が聞こえた。そこにイザヤが居たんだ」
「それだけの理由で恋仲にするのはやめてくれ。彼女とは何もない」
「それだけじゃない。さっき彼女の手を見たぞ。あれは、お前が買った指輪だろ?」
見てたのか……と心の中で呟いた。
確かに露店へ一緒に立ち寄ったが、デニスはハリと会話しつつ売り物を品定めしていた。まさか、イザヤが購入した品物を観察していたとは思ってもいなかったのだ。
「お前なら俺は諦めるよ。お前がマケイラ様に願い出てくれたから、俺とハリは久々に外の空気を吸えたんだ。感謝してるし、最高の友だと思ってる。だから、本当のことを教えてくれないか」
イザヤは、ため息をついた。
「確か……デニスは隠し事が出来ないから、秘密は話すなって言ってなかったか?」
「そんなこと言ったか?」
「言った。秘密が出来たら俺を思い出せって。ハリのことは、ついでに思い出してやれって」
「ひどい話だな。それは俺じゃない」
「いや、お前が言ったんだよ」
もう、隠す気力は失せていた。
くれぐれも明かさないでくれと念を押したが、もし兄妹だと知れ渡ったところで、ナタリーがマケイラ妃の強敵になるとも思えないし、どうにかなるだろう。せいぜいゾーイが怒るくらいだが、デニスが秘密を守れなかったと知ればゾーイはデニスを軽蔑しそうだ。
兄の心境としては複雑だが、デニスを応援してやりたい気持ちもあって「ゾーイに嫌われたくなければ、絶対に隠し通せよ」と脅しておいた。




