見捨てられた妃候補(一)
ナタリーがレブラーン帝国皇宮に入宮したのは、齢十五のときである。
「ナタリー様。今日は何をして過ごされますか?」
侍女のミアが、ナタリーの黒髪をブラッシングしつつ問うた。
三歳年上のミアは、幼少時から宮仕えをしているらしく後宮の事情には明るい。故に、ナタリーの侍女として選任されたらしい。
ナタリーは鏡の中のミアを見つめた。
赤髪を一つに束ねたミアは、鼻歌混じりでご機嫌そうに髪を梳いてくれる。
「いつも思うけど本当に真っ黒で珍しいわ」と、ミアが独りごちた。
ナタリーは、もう何度聞いたか分からないその言葉に小さくため息を吐いた。
自分の黒髪が珍しいと気付いたのは、いつだったか……。
多種多様の人種が居るレブラーン帝国では様々な髪色を見るが、暗所では黒に見えても……という濃茶色しか見たことがない。
ナタリーは海を越えたアサイ族の血筋だった。
幼いとき、旅の途中で盗賊に襲われて両親を失い、たまたまそこを通りかかった養父に救われたのだ。
その稀有なアサイ族が、妃候補に推薦――。
教育に厳しかった養父が、それが嫌でよく泣き出すこともあったナタリーに甘く優しかったのは、ナタリーがアサイ族だったからではないだろうか。その疑心はナタリーの胸に常にあったが、それを暴く勇気はなかった。見たくないものは、心の奥底にしまい込んで鍵をかけたのだ。
当然、妃候補推薦の打診があった時は快く了承したばかりでなく、養父に頼ってもらえたことが嬉しくて舞い上がり、必ず妃になってみせると意気込んでいた。というより、すでに妃になった自分を想像するところまで至っていた。
自分が浅はかだったと知ったのは入宮後である。
妃候補はナタリーの他に五人もいたのだ。皆、ナタリーよりも背が高くグラマーな娘である。
日数をかけて用意したドレスや貴金属は、今や輝きを失って見えた。
「ナタリー様。聞いてらっしゃいますか?」
鏡の中のミアがナタリーを見つめた。
ミアは手先が器用な侍女だ。ナタリーの黒髪をハーフアップにまとめ、金細工の髪飾りでシンプルに、かつ上品に仕上げている。
この髪飾りは腕利きの職人に二度も作り直させた、こだわりの品であったはずだ。自分を美しく引き立てる特別な飾りだと信じていたのが恥ずかしい。
「ごめんなさい。聞いていなかったわ」
「ナタリー様、目下の者に謝っては駄目ですよ。もう十日も経つのですから早く覚えてくださいね」
ミアはそう前置きすると「今日の過ごし方の話ですよ」と、ついでのように本題を付け加えた。
そういえば、そんな言葉を聞いた気がする。
「そんなこと私に聞かれても……。決まりごとの多い宮中で何が出来るの」
ナタリーは嘆息した。
宮殿には、音楽堂、美術館、図書館など、その言葉を聞いただけで心が踊るような場所があるが、そこは私的に出入り出来る場所ではなく、また公的行事が開催された場合であっても招待がなければ入れない。そもそも、許可なしでは後宮から出ることさえかなわないのだが。
「では爪を染めなおしますか?」
「それは昨日やったわ」
「ではエステティックなどいかがでしょう」
「それも昨日やったわ」
さすがにミアも困っている。
「では、お散歩はどうですか? ウェストガーデンのバラが見頃だそうです。よい息抜きになるのでは?」
「そうね……」
皇妃には淑やかさと気品が求められる。
散歩という気分ではなかったが、これ以上のわがままを言うのもはばかられてナタリーはうなずいた。
部屋を一歩出ると、石畳がどこまでも続いている。
後宮はとにかく広大で、敷地内のガーデンを全て見て回るには一日では足りない。しかし、皇帝の暮らす宮殿はさらに規模が大きい。
石造りの胸壁に囲まれた宮殿にはアーチ型の屋根が乗っており、左右に二つの塔がそびえ立っている。
ナタリーは遠目に宮殿を見つめて一度足を止めた。
ここで暮らすようになってから丸十日、ナタリーは未だ皇帝に拝謁したことがない。
初日、皇太后のもとへ挨拶に出向いた折、皇太后は直ちに皇帝との謁見を段取ると言ったが、それ以降音沙汰なしだ。いつでも気軽にいらっしゃいと言われたため、五日目に待ちあぐねて皇太后が昼居する執務室を訪ねたが、扉の前で取り次ぎを担当している女中に拒まれた挙句「社交辞令を鵜呑みにするとは図々しい」という囁きまで聞いてしまった。
養父は皇太后の従姉弟である。皇太后が、ナタリーの後見人であることは周知の事実だった。
ただの女中が、こんなに無礼でよいのかと最初は驚いたが、妃候補と言えども皆が妃になれる訳ではなく、齢二十五までに所望されなければ、実家に帰される。
「彼女はナタリー様が妃になれないと思っているのでしょう」とミアが教えてくれた。
ミアは歯に衣を着せぬ性質らしい。
ナタリーはミアのそういう性格が肌に合わなかった。
おそらくミアもナタリーを軽視しているのだ。職務に関しては文句をつける気もないが、ナタリーを妃にするためにミアが尽力してくれるかと考えると、なんとなくだがミアはナタリーのために動かない気がした。
「ナタリー様。あちらです」
曲がり角を幾つか過ぎ、緑門が見えてくると、背中に付いていたミアが目で方角を告げた。
振り返ったナタリーは、ミアの背に続く女中達の姿に嫌気がさして再び嘆息した。
ミアが後輩に仕事を学ばせるために連れてきたのだと分かっていても、皆から監視されているような気分になって肩の力を抜くところがない。
「ねぇミア。たまには一人になりたいわ。あなた達は他の仕事もあるのでしょう? そちらを優先してくれてもいいのに……」
「何をおっしゃるんですか。私達はナタリー様にお仕えしているのです。ナタリー様を放っておくことなんて出来ませんわ」
その正論のせいで、ナタリーは言葉を返す気力も失せてしまって押し黙った。
反論できないのではなく、反論したところでミアは絶対に引き下がらないと分かっているから面倒くさいのだ。こうあるべきだとか、こうしなければいけないだとか、ときには過去の例などを持ち上げて、自分が正しいのだと言わんばかりに長々と話しだす。もうわかったから、言うとおりにするからとナタリーが折れても、自分の正しさの証明を最後まで話さなければ気が済まないらしく、とにかく自分語りが長い。
たまに、前に聞いた話と違うなと思うこともあるのだが、そこを指摘すれば「今回の場合は……」と真偽は分からないが、それらしい答えをさらに長々と聞かされるので面倒くさ過ぎて従っているだけなのだが、そうやってナタリーが反論しないことに満足しているようなミアの自信のある顔が不快だった。
ミアは、現皇帝が掲げた実力主義の恩恵を受けて、此度はじめて念願の侍女の座を掴んだ。背筋の伸び方にも、誇らしげな声にも、自分の正しさを示すような傲慢さが染み付いている。
ナタリーは、まるで主役のように振る舞うミアが恨めしかった。




