礼拝
レブラーン帝国の神殿は、予言の神とも言われる戦神を祀っている。
神殿では月に一度の儀式で生贄を捧げて礼拝するのだが、この行事は皇帝が欠かさず参加するので、必然的に後宮の妃の来訪も多くなる。皇帝と会える機会の少ない妃には、絶好の行事なのだ。
セミル大神官が階段の上にある祭壇の準備をしていると、マケイラ妃の群れが現れた。
「これはマケイラ様。いつもながら、お早いですな」
本来ならば不敬ではあるが、セミル大神官はマケイラ妃を見下ろしたまま声をかけた。
「ええ。私には構わず続けてちょうだい」
マケイラ妃はセミル大神官の居場所に気付くと返事をしたが、直ぐに振り向いて、自分の群れに気をやった。
彼女はいつも誰より早くやってくる。
妃が神殿に来ると、儀式の準備中でも中断して真っ先に挨拶をしに行かねばならないので、セミル大神官は困りはてていた頃があった。
しかし、それも毎度のことになると流石に黙っておられず、皇帝がお見えになるまでに準備を終わらせたい旨をマケイラ妃に申し上げた。それからは、準備の優先を許してもらっている。
セミル大神官は香炉に火を熾しつつ、口元を緩ませた。
本来の目的を見失っている妃達と比べれば、信心深いマケイラ妃の方が、まだしも救われると思ったのだ。
「生贄の鶏を持ってきてくれ。それと聖剣と聖杯もだ」
残りの準備は他に任せて、セミル大神官は階段を急ぎ降りた。
マケイラ妃は、自分がいつも座っている所定の場所に毛氈を敷かせている。その中にミアと見慣れぬ小姓がいた。
「マケイラ様。挨拶が後回しになって申し訳ありません」
セミル大神官は、ようやく敬礼をした。
「気にしなくていいわ。時間より早く来ているのは私だもの」
「そう言っていただけるとありがたいですな。ところで、先日は姪を受け入れていただけたそうで……。お礼を言わねばと思っていたところです」
言いつつ、ミアの姿を探した。
心を入れかえてお仕えしているか、その顔を確認しようと五人の群れの中にミアの顔を見つけた時、セミル大神官は驚愕に目を見張った。
先ほどは毛氈を敷くために俯いていたから見えなかったのだが、ミアの両頬は真っ赤になって腫れていたのだ。唇の端も切れていた。
「それも気にしなくていいわ。人手が足りなかったから、こちらが感謝したいくらいだもの」
マケイラ妃は、事もなしに毛氈へ腰を降ろした。
「そうですか……」
セミル大神官は呆然と答えた。
その先の言葉が思いつかなかった。
ミアの話をしているのに、マケイラ妃はミアの顔について説明しないのだ。何があったのか問いただしたかったが、マケイラ妃の悪びれる様子がないのを見るに、訊くべきではない気がして心を押さえた。
その日の儀式は、セミル大神官の記憶に残らなかった。
儀式を終えた後、ミアの治療をさせてほしいとマケイラ妃に頼み込んだことしか、はっきりと覚えていない。
夜が更けてから、セミル大神官は執務机の引き出しからナタリーの髪飾りを取り出した。
何か思惑があったわけではないが、考え込んでいるうちに自然と手が向き、様々な角度にして見つめていた。
ミアの話によれば、マケイラ妃に宝石箱を持ったまま動くなと命じられたそうだが、彼女はいつまで待っても宝石を選ぶ気配はなく、しかし命令の撤回もなく、さらに昼過ぎには外出したらしい。監視はされなかったが、ミアは命令に従い、夕方まで宝石箱を持っていたと言う。
しかし、限界になって宝石箱を置いたとき、マケイラ妃が戻ってきたらしい。
足音が聞こえてきたから、再び宝石箱を持とうとしたが、座り込んでいたせいで立ち上がるのが遅れた上、手に力が入らず、さらに焦っていたのもあって宝石箱を落としてしまったのだとか。
夕方まで堪えたなら、何故あともう少し堪えられなかったのかと思うが、マケイラ妃はまだまだ帰ってこないと聞いたからなのだと。
そして、ミアの顔を打ったのはイザヤという小姓だと聞いた。
マケイラ妃の命令ではあったが、彼は手加減なしに打ったので、見かねた侍女長が止めさせるようマケイラ妃に進言したらしい。
だから、やめておけと言ったのに……。
セミル大神官は肩で息を吐くと、髪飾りを引き出しにしまった。
儀式の間の記憶は朧げだが、そういえばナタリーの姿は見えなかったと思い出した。
翌朝、セミル大神官がいつもの礼拝をしようとしていると、ナタリーが侍女を一人連れて現れた。
その侍女は、小姓イザヤと同じ金髪で碧眼の娘だった。
ミアの代わりはすぐに見つかったのだと思うと、もうこれでミアがナタリーの侍女に戻るという選択肢は無くなってしまったのだなと諦めの気持ちが湧いた。
「ナタリー様、こちらへは何用で?」
「礼拝したいのですが、構いませんか?」
「それは構いませんが……」
大神官は、はて、と思った。
皆、皇帝が見える儀式の日には来るが、それ以外の日に来る者はいない。
「ナタリー様は、この神をご存じですか?」
祭壇の奥に祀られている神の像に目をやった。
その石膏象は、男性とも女性とも区別がつかぬ中性の顔立ちで、肩の片側から布を巻きつけただけのような姿から肩幅の広さや腕の筋肉は確かめられるが、やはり中性的な体格なのだ。長髪の頭には月桂樹の冠を被っている。そして肩幅に足を開き、右の人差し指で正面を指しているのだが、その腕に巻きついているコブラは鎌首をもたげて、神が指差す方向を睨んでいた。
「戦いの神であり、予言の神でもあると聞いています」
セミル大神官はうなずいた。
「あなたは神に感謝していますか?」
マケイラ妃にも同じ質問をしたことがある。
彼女は、もちろんと答えた。
帝国が大きくなったのは、戦の神が味方したからだと。
「分かりません。私は神に問いたいです。先日の反乱で多くの方が亡くなりましたが、その犠牲に意味はあったのでしょうか」
セミル大神官は無意識に唇を噛んだ。
ナタリーは正義感の強い娘なのだろうと思ったが、神の意思について話されても困る。
その役目はこちらである。
「それは神のみぞ知ることです。心で問いかけてみなさい」
「では……戦の神に、亡くなった方々の安らかな眠りを祈っても怒られないでしょうか?」
セミル大神官は、一瞬思考が止まった。
そして笑いそうになった。
ナタリーが困った顔で真剣に言うからだ。
神官とて、神への祈りは一方的なものであるのに、ナタリーの言葉では、まるで神の返事があるかのようだ。
「問題ない。予言の神でもある」
「安心しました。これで心置きなく礼拝できます」
胸がすいたのか、ナタリーは胸を押さえて顔を晴れやかにした。
「解決して良かった。私も死者の安らかな眠りを祈ることにするよ。さぁ、礼拝しよう」
「はい」
ナタリーは床に膝を付き、指を組んで瞳を閉じた。
入口から射し込んだ光が彼女の背中を照らしている。
一瞬、美しさを感じたのは、やはりナタリーがアサイ族であるからだろうか。
彼女の闇色の髪は神秘的で、その謎めいた姿に惑わされる。本当に不思議な力があるのではと疑ってしまう。
セミル大神官も床に膝を付いて、指を組んで目を閉じた。
しかし、礼拝するつもりが邪魔な思考に取り付かれて集中出来なかった。
マケイラ妃に乗りかえたミアのことが悔やまれたのだ。
ナタリー様の下なら、頬を打たれることもなかったであろうに……。
その日の夜、セミル大神官は再び髪飾りを手に取った。
今回はナタリーのことを思っていた。
ウーゴ神官から、彼女はウィリアム卿と関係がないとは聞いていたが、彼女の人となりを確かめるまでは保留にしておこうと思っていた問題を、放っておくわけにはいかないからである。隠蔽するならば、腹をくくる必要がある。
しかし、命をかけてまで同じ船に乗る必要があるだろうか、とセミル大神官は自問した。
しばらく考えたが、まだ答えは出なかった。




