洗礼
イザヤ達がマケイラ妃の宮に水がめを運び終えた頃には、辺りは暮れなずんでいた。外ならばまだ景色は見えるが、室内はすっかり暗くなっているので、女中らが慌ただしくキャンドルに火を点している。
外出中のマケイラ妃がもうすぐ戻ってくる頃だと言うのだが、それまでに明るくしておかなければ叱られるのに、人手不足で全ての業務が遅れてきているのだと女中が嘆いた。
それに、マケイラ妃が帰ってきたらすぐに食事の準備をしなければならないのに、まだ厨房に食事を受け取りに行ってないのだと。
厨房は後宮の正門近くにあるので、真反対のここから行って帰ってくることを考えると、そこそこ時間がかかる。
お人好しのデニスが「照明を点けるくらいなら手伝えるから厨房に行ってこい」と女中に言ったので、イザヤとハリもそれを手伝うことになった。
「ではお願いします」と女中から渡されたのはテラコッタ(粘土の素焼き)のオイルランプで、小さなジョウロの先に火が点いているような形のものだ。
イザヤはそのオイルランプで応接間の壁に火を移したあと、隣接している化粧部屋に向かった。
そこは、朝一番にイザヤが訪れた部屋である。
しかし不思議だなと、イザヤは思った。
女中虐殺後のアトリウムを清掃していた時、皇帝とマケイラ妃の話を立ち聞きしていたが、マケイラ妃は「私の侍女も二人犠牲になりました」と言っていたのだ。ミアが入ったのだから不足は一人の筈だ。
たかが一人の差で、それほど業務が滞るだろうか。もしくはミアは一人前の働きさえ出来ず、それどころか足を引っ張っているとか……。
働いているところを見ていないから単なる想像でしかないのだが、なんとなく無能っぽいんだよな、などと考えつつ化粧部屋に入った時、思わぬ人影に驚いて「うわっ」と声が出た。
薄闇の中で、ミアがぽつんと佇んでいたのである。
ミアはイザヤを見ると「もういいの?」と、すがるような声を発した。
「何が?」
話したくもない女だが、意味が分からず訊いた。
しかし、声に出した時には既にその問いの意味に気付いていた。
ミアはまだ宝石箱を持っていたのだ。
よく思い出せば、ミアが立っているのは朝見たときと同じ場所だった。
そう来たか――。
やはり今朝の勘は当たっていたのだ。
しかし、このやり方は想像しなかった。
マケイラ妃の恐ろしさが分かった気がして全身の毛が逆立った。
彼女は、ただヒステリックに叫ぶような馬鹿な妃ではないのだ。気にいらないことがあっても、一旦そのまま置いておく。それを気にしていないかのように振る舞うから懐が深いのかと思いきや、静かに獲物をなぶるのだ。
そういえば、皇妃には淑やかさと気品が求められるとどこかで聞いたなと思い出した。
その皇妃の振る舞いを守りつつ寵妃となったのがマケイラ妃なのだ。
後宮で出世するには、たやすく感情を見せるなということだろうか。
そんなことを考えつつ、イザヤは壁の燭台に火を灯した。
「ねぇ、まだなの? もういいって言いに来たんじゃないの?」
ミアは我慢の出来ない子供のように言った。
ところどころで甲高くなる声が不愉快だった。
彼女の顔を見ているだけで、彼女の声を聞くだけでうんざりするのだ。
「さぁ、どうかな。それを置きたいなら置けばいいだろ」
ローテーブルに置いてあるキャンドルにも火を灯し、ほのかに明るくなった部屋でミアをよく見ると、憔悴しきった顔には涙痕があった。
「だめ!! 動くなって言われたの!! ずっと持ってないといけないの!! 置いたら叱られる……」
イザヤは眉間にしわを寄せた。
ナタリーが「待って」と言っても逃げたのに「動くな」と言われたから動かなかったというのは信じがたかった。
ミアのような忠誠心のない女は、人目に触れぬところでは何をしているか分かったもんじゃない。
「誰も見ていないのに、本当にそれを持ち続けていたかは疑問だな」
「ずっと持っていたわ!! 本当よ!!」
疲労のせいか、ミアの手が僅かに震えていた。
嘘をついていない気がしてきたが、イザヤは許せなかった。
ナタリーの命令には背き、マケイラ妃の命令には従うのかと思うと、腹立たしさは更に増した。
ナタリーの命令には、ゾーイの命がかかっていたのだ。この感情を吐き出さねば鎮まらないと思うほど腹が煮えたぎったが、イザヤは深く息を吸ってそれに堪えた。握りしめた拳の中に、爪が食い込んだ。
「ねぇ、黙ってないで何か言ってよ!! もう置いてもいいんでしょ!?」
「生憎、俺は点火係だ。何も聞いてない。残念だったな」
期待した分、絶望は激しい筈である。
立ち去ろうとすると、ミアは涙を溢した。
「本当に? そんな……まだ持ってろって言うの?」
一瞬いい気味だと思ったが、まだ足りない。もっと苦痛を与えねば気が済まない。
イザヤは立ち去り間際に「マケイラ様はいつ戻るか分からないらしいぞ」と言い残して扉を閉めた。




