デニスとハリ
「しかし、イザヤは残念だったな」
デニスは、水で絞った布で首の後ろを拭きながら言った。
貴族の息子だが三男だというデニスは、一時は近衛兵を目指していたらしく筋骨隆々の青年だ。短髪のカールヘアがよく似合っている。顔にも筋肉がついているのか丸顔だが、整った顔立ちをしているので、女性にモテそうな気がするなと思った。
空はもう夕焼けで赤く色付いていた。
石積みの方形の水場は、サイフォンの原理で壁に付いた管から水が流れ続けている。管の下に水がめを置いて流水を貯めるので、その待ち時間を水場の縁に腰掛けて、足を浸していた。
「残念?」
イザヤの代わりにハリが答えた。
ハリは顔を洗ったばかりで、肩まで伸びた赤毛から水が滴っている。
「イザヤはマケイラ様に気に入られたんだ。残念じゃないだろう」
「いやいや。これを聞くと残念だと思うぞ」
「どうかな。給料はホセ侍従よりマケイラ様の方が多くくれそうだし。もしかしたら、俺達より多いかもしれない。残念なことってあるか?」
デニスとハリは、どちらも二十五歳らしい。二十二歳のイザヤとは年齢が近く、溝さえ埋まれば親しみやすい性格なのだと知った。
「イザヤはどう思う?」
デニスは少年のように笑った。
体格がいいので一見すると強面風だが、笑った顔は無邪気で、ハリが悩んでいるのを見て楽しんでいる。
イザヤも謎を解こうと一瞬考えたが、ヒントが無かったので諦めて首を横に振った。
「実はな」
デニスは周りに人が居ないのを確かめたはずなのに声をひそめた。
聞き逃さないようイザヤとハリが耳を近づけると、デニスはさらに声を小さくした。
「ホセ侍従が小姓を連れて外出したんだ。行き先はどこだと思う?」
やはり、ヒントがない。
イザヤとハリが首を振ると、デニスは唇をなめてから口を開いた。
「娼館だ」
「本当かっ!?」
ハリは立ち上がって驚愕した。
その勢いで飛びはねた水まで驚いているように見えた。
突然、大きな声を出されたので、デニスは耳に指を突っ込んで顔をしかめたが、デニスの声も平常時の大きさに戻った。
「ハリ。お前が悔しがってもお前の話じゃないぞ。そして本当だ。とりあえず座れ」
ハリが腰を落ち着かせたのを確かめてから、デニスはイザヤの目を見つめた。
「イザヤは残念じゃないのか?」
「いや、まぁ……ここへ来るのが明日だったら、俺も行けたのになとは思う」
「良い答えだ!!」
デニスは嬉しそうに、イザヤの頭をつかんで撫で回した。
「何だよ。やめろって」
イザヤは抵抗する素振りを見せたが、決して嫌な気分ではなかった。
貧しい環境で育ったせいで友人もいなかったから、このようなじゃれ合いには慣れていなかったが、心が弾むような気持ちだった。
「嫌だね。お前は分かりにくいんだよ。人間味がないと言うか……。離れたところから他人を見てる感じがするんだよな。でも良かった!! 人間だった!! ここに来て三年経ったんだろう? 人肌恋しいよなぁ」
「水を差すようで悪いが……」
ハリが、デニスとイザヤを引き離した。
「まず、イザヤは経験があるのか?」
ハリの顔は深刻である。
「自由に想像していい」
「いや、教えてくれよ!! 経験がないと言ってくれ!!」
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、ないよ」
「いや、本当のことを言ってくれ!!」
「本当のことが聞きたいのか?」
「いやいやいやいや、やっぱり言うな!!」
ハリは分かりやすい性格だが、デニスが「こいつはまだなんだよ」と暴露した。
ハリは十三歳で小姓になり、外出は一度もしたことがないと言うのだから、仕方のないことである。
「だが、イザヤのことが分かってきたぞ。お前は隠し事が出来る奴だな」
デニスは太い腕を組み、うんうんと頷いている。
「そうかな」
そうなんだろうかと思っていると、デニスは親指でハリを指した。
「で、ハリは出来ない奴」
「それは分かる」
イザヤが即答すると、ハリが「え、何で?」と間抜けな顔を見せたので、デニスと思いきり笑いあった。
そうこうしているうちに、いつの間にか水がめから水があふれていた。
荷車に水がめを積み、それをハリが引いて、イザヤとデニスは押すことにした。
水場での話は、ただの笑い話で終わったものだとイザヤは思っていた。
しかし、帰り道の途中を過ぎた頃、デニスが口を重そうに開いた。
先ほどとは違い、真面目な顔つきだった。
「さっきの話だが、俺も隠し事は出来ない奴だ」
唐突に蒸し返したのは不自然だった。
イザヤは少し考えてから口を開いた。
「何か言いたいことが?」
「ある」
「何だ?」
「俺もハリも隠し事が出来ない。だから、もし、ばれたらまずい秘密があるなら話さないでほしい」
デニスはイザヤと目を合わせなかった。
急に壁が出来たような発言だったが、デニスなりに悩んだ上で言おうと決心したのが見てとれた。
「もしかして……マケイラ様の直属が前例のないことだから、重大な秘密があると?」
「ないのか?」
「ははっ。ないよ。おそらく皇太后陛下への嫌がらせだ。今朝の挨拶で分かったが、マケイラ様は俺に興味が無いね」
「それは聞いてもいい話か?」
「マケイラ様と皇太后陛下が不仲なのは、誰でも知ってる話だろ」
「まぁ……そうだな。でも、気をつけてくれ。いつか秘密が出来た時は、俺のことを思い出せよ」
「ハリのことは?」
「ついでに思い出してやってくれ」
ついでかよ、と思うと、デニスの真面目な顔が面白く見えてきて失笑した。
すると、一人で車を引いているハリが「呼んだか?」と、振り向きざまに叫んだ。車を引く音で会話は聞きとれていないようだが、自分の名前だけは聞こえたらしい。
「呼んでない!! しっかり引け!!」
デニスが叫ぶと「お前らもしっかり押せよ!!」と返事があった。
それを聞いたデニスは手を離し、おどけて変な踊りを見せた。
イザヤは笑ってしまったが「押せよ。重いんだよ」と、ハリに聞こえないように小声で言った。
「冗談だって。ま、覚えておいてくれよ」
「わかった。覚えておくから押してくれ」
デニスの人柄のおかげで話は軽く終わったが、イザヤの心中は重かった。
デニスの見当違いではあったが、イザヤが秘密を抱えていることは当たっていたからである。
もちろん、ナタリーが内廷に出たことは誰にも話すつもりはないのだが……。




