イザヤの転機
あらかた掃除も終わり、皆が使い終わった桶やブラシをイザヤが回収し始めた頃、皇帝はそろそろ内廷に戻る気配を見せた。
マケイラ妃は「寂しいけれど我慢しますわ」と、慎ましく儚げに言いつつ、皇帝に腕を絡めている。
イザヤはもう二人のやり取りに興味はなかった。
二人がイザヤの前を横切ったので頭を垂れて聞いていたのだが、計算づくにしか聞こえないマケイラ妃の言葉に飽き飽きしていた。
皇帝は、政務があると分かっているのに引き止めるような馬鹿な女は嫌うだろう。しかし「お見送りします」だけでは味気ない。
マケイラ妃は、皇帝が好みそうな言葉を選んで発言しているのだなと思った。彼女なりに皇帝の寵愛を逃さぬよう努力しているのだ。
しかし、それゆえにストレスが溜まっていそうで、皇帝が居ないところでは目下の者に当たり散らしていそうだなと勝手な想像をしてしまう。
そんなことを考えつつ、二人が通り過ぎるのを待っていると、マケイラ妃が急に足を止めた。
「あなた」
「え? は、はい!!」
咄嗟なことで、イザヤは恐縮した。
考えていたことがバレるはずはないと思ったが、目下の者に興味のなさそうなマケイラ妃が声をかけてくる理由が分からない。
「さっきの小姓よね。あなたに聞きたいと思っていたの。あなた、私のことを知っていたの?」
イザヤは再び恐縮した。
やはり名前を呼んでしまったのは失敗だったのだ。ただの小姓の発言など忘れたままでいいのに、わざわざ思い出してくれるとは、答え方を間違えば怒りを買いかねない。
「いいえ。初めてお姿を拝見しました」
「では何故、私だと? 私の名前を口にしたわよね?」
「あ……それは……」
当たり障りのない言葉を選ぼうとすればするほど、高慢な雰囲気を感じ取ったことばかり思い浮かぶ。
マケイラ妃だと確信を持つ特徴など、他にあるだろうか。
「言いなさい。後宮を調べていた間者だと疑われてもいいの?」
皇帝は黙って聞いているが、間者という言葉は、反乱からさほど時間が経っていない今、非常に危険な響きである。この疑いは遠ざけなければ身が危うい。
「実は……寵妃のマケイラ様は有名ですので……さぞ美しいお方だろうと想像していました。拝見したのは今日が初めてですが、私が想像していた通りのお姿でしたので、ついお名前を呼んでしまいました。もし間違っていたら失礼だと後悔したのですが、これほど美しい方は他にいらっしゃらないだろうと……」
嘘つきは雄弁だ。喋り過ぎて余計怪しいかとイザヤは思ったが、マケイラ妃は外見を褒められることには慣れた様子で「ああ」と聞き流した。
もう興味が失せているようであった。
しかし、皇帝はまだ無言。
さらに問い詰められたら答えはもう思いつかないと思っていた時、離れたところにいた皇太后が近づいてきた。
「彼が何か?」
皇太后の立ち位置は、イザヤとマケイラ妃の中間だった。
「あら、皇太后陛下。もうお部屋に戻られたと思っていました」
マケイラ妃は一礼した後「ところで、彼をご存知なのですか?」と続けた。
ただの小姓を庇うようにして皇太后が立ちはだかったのだから、マケイラ妃が訝しむのも当然である。
「ウェストガーデンで矢の襲撃に遭ったナタリーを助けてくれたのよ」
「そういえば、先ほども居たな」
沈黙を守っていた皇帝が、やっと口を開いた。
皇太后のおかげで疑惑は晴れたようだが、今度はマケイラ妃が不満げに「ナタリー? アサイ族の妃候補ね」と呟いた。
ナタリーに嫉妬しているのではなく、皇太后が後見していることが不快なのだ。
「お前は立派なダガーを持っているんだな」
話題を変えたかったのか、皇帝がイザヤの腰に付けてあるダガーナイフについて触れた。
女性同士の不仲な空気を嫌うのは皇帝とて同じのようだが、マケイラ妃を無視した焦点のずらし方は、支配力の強さを感じた。皇帝が「黙れ」と心で命じたのを、マケイラ妃が感じ取った気配があったのだ。
「私が贈ったのよ。ナタリーを助けてくれたお礼にね」
しかし、皇太后はマケイラ妃に気を遣うつもりはない。ナタリーの名を出すことでマケイラ妃が不快になろうと、彼女が我慢するべきだと思っている。
「なるほど。母上の下賜品ならば、小姓の中でこれに勝るダガーを持つ者はいないだろうな」
イザヤはずっと、数本のブラシを右腕に抱えたままだ。左手には桶を提げている。いつ立ち去ってもよいのか時機を見計れずにいると、皇帝と皇太后はダガーナイフの生産地や職人の話題で、さらに会話が長引き始めた。もちろんマケイラ妃が加われない話題である。やがて、痺れを切らしたマケイラ妃が、話の途切れそうな時機を見計らって強く発言した。
「皇帝陛下!!」
しばし彼女を無視した会話が続いていたのだ。悪態はつかずとも、嫌味を含んだ言葉を上品に述べるのかと皆が思ったが、その予想は裏切られた。
「私、彼が気に入りました。ちょうど侍女が減って人手不足となっていることですし、彼に私の宮で仕えてもらいたいのですが……」




