マケイラ妃
アトリウムの掃除は、ホセ侍従を含む三人の侍従に命じられた。
遺体の撤去は、後宮の警護や管理などを司る後宮監督官が近衛兵に命じてくれたため、小姓は床や壁の清掃をすることになった。
イザヤは血色に染まった床をブラシで磨いていた。
まだ辺りに満ちた鉄臭さが残っている。独特の生臭さはどうにも耐えられない人もいるらしく、嘔吐して掃除を放棄した者も数名いる。
嘔吐しないからと言って平気なわけではないのだが「お前は凄いな」と、不調混じりの顔つきで脱落していく同僚を横目に床を磨いていると、ふと誰かに声をかけられた。
「皇帝陛下はどちらにいらっしゃるの?」
濃茶色の髪の美女だった。
汚したくないのか、長いドレスの裾を持ち上げている。年齢は皇帝と同じくらいだろう。
ノースリーブのドレスは赤色のサテンに金糸の刺繍が入ったもので、胸下をベルトで締めて優美なドレープ(ひだ)を作っている。富裕層の人間は、紫、赤、青、黄色などの鮮やかに染色された生地のドレスを競って着用するが、彼女はその典型的なタイプだ。とにかく派手で主張が強い。
しかも彼女には、自信に満ち溢れた雰囲気が漂っている。
皇后不在の現在、二十名ほどの妃の中で、さも皇后であるかのような雰囲気を放つのは、おそらくマケイラ妃しかいないとイザヤは思った。
「これは……マケイラ様」
イザヤはただちにブラシを置き、拳に掌を載せる敬礼をした。
つい、名を口にしてしまったが、間違っていたら厄介だなと思った。
「楽にしなさい」
イザヤが顔をあげると、何か思うところがあるような彼女の視線が突き刺さったが、それは長くは続かなかった。彼女にとって小姓などは興味を向ける対象ではないようで「それで陛下は?」と、もう何を思ったのかも忘れたような態度である。やはりマケイラ妃本人なのだ。
「皇帝陛下は、外で皇太后陛下と話していますが……」
イザヤが宮殿に仕えるようになって、すでに三年が経つが、マケイラ妃の姿を見たのは初めてだった。
この宮殿でマケイラ妃のことを知らぬ者はない。彼女は、皇帝が最も寵愛している皇妃なのだ。
後宮の頂点に座すのは皇太后だが、皇帝の心を独占しているマケイラ妃は、皇太后をも凌ぐ栄華を極めている。しかも、気に食わぬ女中を害したとか、皇帝の子を宿した妃を殺したとか、真実か否かはさておき、とにかく噂が絶えないのがマケイラ妃だ。
ナタリーが周囲から蔑まれているのは、マケイラ妃のせいだと言っても過言ではない。
ナタリーは「アサイ族ならばマケイラ妃と寵を競うのでは」と、マケイラ妃の失脚を望む者達から勝手に期待されていたのだ。
伝説だか迷信だかで、アサイ族には不思議な能力があると言われているが、神官いわくナタリーから不思議な能力とやらの気配は認められなかったそうだ。
しかも、皇帝は未だに妃候補の誰とも顔を合わせようとしないらしい。
イザヤは外へと向かうマケイラ妃の背中を目で追いつつ、彼女と競わせるのは厳しいだろうと思った。
マケイラ妃は、ナタリーとは全く違う雰囲気を持っている。皇帝に寵愛されている自分を特別だと信じている顔だ。
彼女のような人でなければ、皇帝の目に留まるのはおろか、妃候補同士の争いにも勝ち残れないだろうと思った。
「皇帝陛下。皇太后陛下」
マケイラ妃は女中を従え、二人のもとへ急ぐと敬礼をした。
二人は目先の芝生の上で話していた。
外とアトリウムの区切りは大理石の柱のみで壁はない。話し声が聞こえてくる。
「マケイラ。元気だったか」
「いいえ。陛下がおいでにならないので、寂しくて痩せてしまいました」
「ウィリアム卿を探らせていたのだ。仕方あるまい」
「ふふっ。冗談です。鎮圧の報せを聞きました。陛下がご無事で安堵いたしました」
イザヤは別のところをブラシで擦り始めた。
皇太后の声が聞こえなくなったなと思った。
ナタリーを妃にと推薦している皇太后にとって、マケイラ妃は邪魔者以外の何者でもないであろうし、それを言うならマケイラ妃にとっても皇太后とナタリーはうっとうしい存在に違いない。
「そういえば陛下。殺した女中の中に内通者はいましたか?」
誰かから、つい先ほどの騒ぎを聞いたのだろう。
女中らが殺されたとき、マケイラ妃の姿はなかった。どうやら、蒸し風呂で寛いでいたらしい。
後宮の女は自分を磨くことしか頭になく、世情にはまるで関心がないのかと思っていたが――。
マケイラ妃は、思っていたほど無知ではない雰囲気がある。そう考えてみれば、あの皇帝が無知な女を好むとは思えないな。と、イザヤは思った。
「内通者か。さて、どうかな」
皇帝は問答を楽しんでいるかのように微笑んだ。
内通者は存在しないと知りつつ殺したとしか思えなかった。おそらく宮令に背いたことが許せぬのだ。規則や道理に従わぬ正義の制裁というより、自分に逆らった者が許せぬという印象があった。
「私の侍女も二人、犠牲になりました。新しい人手が必要なのですが、他のところも女中不足だというから困っていますわ」
マケイラ妃の声には、侍女が亡くなったことを悲しむ気配はなかった。
イザヤは、ゾーイのために必死になっていたナタリーを思い出さずにはいられなかった。
妃になるためならば、ナタリーもいつか冷酷になってしまうのだろうか。
「ときに陛下。アサイ族の妃候補と対面したと聞いたのですが、彼女の印象はどうでした?」
イザヤは思わず手を止めて、皇帝の姿を見つめた。
マケイラ妃のせいで気配を消していた皇太后も、その問いの答えが気になるようで皇帝の様子をうかがっている。
「アサイ族か……。噂どおり、漆黒の髪と瞳を持つ娘だったが、まだ幼く色気もない。私の好みではないな」
マケイラ妃は「まあ」と大げさに驚いた。
「そこまで仰ると可哀想ですわ」
眉尻を下げて、いかにも同情した顔を見せているが、口元が微笑んでいる。
白々しい。
性格が悪そうなのに、皇帝はマケイラ妃のどういうところを気に入っているんだろうかと不思議に思った。
美貌だろうか。
もし寵愛しているのが、マケイラ妃の人柄などではなく美貌のみなのだとすれば、いつか飽きられるだろうなと想像してしまう。
「仕方ない。真実を述べたまでだ」
肩を落とした皇太后の背中が、やけに寂しく見えた。
イザヤはまたブラシで床を擦りはじめた。




