アトリウムの惨劇
「それが伝説のアサイ族か。なるほど、確かに耀くように黒い髪だな。他の色とはまるで違う」
皇帝と目が合った。
ナタリーは背中が冷たくなるのを感じた。
まるで獲物に狙いを定めた鷹のような目だと思った。
もし、治療をしてくれた神官が皇帝に話していたら言い逃れは出来ない。まさか皇帝はすべてを知りつつ、あえて焦らし追い詰めているのではと疑ってしまう。
「何を言うの!! ナタリーが後宮を出るはずがないでしょう!! ナタリーはウェストガーデンで矢に襲われたのよ」
全く疑っていない皇太后の声に、罪悪感がありつつも心は縋った。
「ああ、心配しなくていい。私は彼女を疑っていない」
思わぬ言葉だった。
声が軽い。本心だろう。
「しかし――」
ナタリーが安堵したのもつかの間、皇帝は「内廷に女が居たのは事実だ」と続けた後、一人の近衛兵に目で合図を送った。
うなずいた近衛兵は、一人の女中の喉に剣を突き刺した。
アトリウムはたちまち、女中達の絶叫の声で満たされた。
「よく聞け!!」
皇帝は大声を発した。
「いま名乗りを上げれば、命は助けてやろう!! 後宮を出たのは誰だ!?」
髪を引っ張られ、床に押さえつけられ、足掻いていた女中達は、皆が周りに目をやった。名乗り出る者を探したのだ。
ナタリーは手が震えた。立っているのもやっとなほど膝も震えていた。
いま名乗り出なければ、また誰かが殺されてしまうかもしれない。しかし恐ろしくて声が出ない。
「お前か?」
誰も名乗り出ないことに待ちくたびれたのか、皇帝は近くで押さえつけられていた女中に問いかけた。
「わ、私じゃありません。信じてください」
女中は懇願した。
顔は涙と鼻水にまみれ、体は恐怖におののいている。
「ふむ」
皇帝が再び近衛兵に目で合図すると、アトリウムに悲鳴が谺した。
兵士の剣が高々と持ち上がると、それはうずくまった女中の背中に、垂直に落ちたのだ。
女中は串刺しになった。すぐには絶命せず、苦悶して事切れた。
「なぜ殺したの! 彼女は違うと言ったでしょう!」
皇太后は悲痛に叫んだが、皇帝はそれに答えなかった。
「名乗り出る者は居ないようだ。皆、始末しろ」
ナタリーはそれを止めねばと思った。
待って、と叫ぼうとした。
しかしその瞬間、強い拳が腹部にのめり込み、胃の中の物を吐き出した。
拳を打ち出したのはイザヤだった。
「ナタリー様、どうされましたか?」
イザヤはわざとらしく声を上げると、前のめりに倒れそうになったナタリーの体を受け止めた。
「ナタリー、どうしたの!?」
異変に気付いた皇太后に、イザヤが答えた。
「あまりの惨状に気分が悪くなったようです」
「もっともだわ。ナタリーが見るものじゃない。私だって倒れそうよ……」
皇太后はイザヤの言葉を素直に信じている。
ナタリーは違うと叫びたかった。
しかし、イザヤの手がナタリーの口を強く押さえていた。
「あなた、ナタリーを部屋に連れていってやって。無事な女中も動けそうにないから」
「承知しました。さあ、ナタリー様。参りましょう」
ナタリーは首を振りうめいた。しかし、かすかなうめき声は、女中らの断末魔の叫びによって掻き消された。
もはや手遅れだったのだ。
四肢の一部や肉片が飛び散ったエントランスホールは、血の海と化した。
「なぜ止めたの!? 私が名乗り出ていれば彼女達は殺されなかったのよ!」
ナタリーは、部屋に送り届けてくれたイザヤの頬を力まかせに打った。
涙がとめどなく溢れた。
「名乗り出ていればナタリー様が殺されていました。皇帝陛下が命を助けるとおっしゃったのを鵜呑みにしたのですか?」
イザヤは冷静に答えた。
打たれた頬を押さえることもせず、痛いとも言わず、ナタリーに憎しみの目を向けることもなく、ただただ冷静だった。
その冷静さに物怖じして、ナタリーの興奮も静まった。
確かにあの皇帝なら、皇太后の縁者である妃候補であろうと、いささかも躊躇わず殺してしまいそうだ。あの冷めた目を見れば、他人の痛みや悲しみなどには無関心なのだろうと分かる。
女中達が殺される瞬間を直視していたのに、皇帝は眉一つ動かさなかったのだ。
ナタリーは泣き崩れた。
自分の浅はかな行動が、これほど多くの犠牲を出してしまうとは夢にも思わなかったのだ。
心の底から自分の運命を呪った。
養父は、あの冷酷な皇帝の妃になれと言うのだ。今すぐここから逃げ出したいと思った。
「咄嗟のこととはいえ、ナタリー様のお体を痛めつけてしまい申し訳ありませんでした。しかし、このことは何とぞ隠し通してください」
イザヤが膝をついて頭を下げたとき、ふとゾーイの存在を思い出した。
自分のことしか頭になかったが、宮令に背いたのはナタリーのみに限らずゾーイとて同じである。
皇帝が話の通じる御方ならまだしも、まともに調べもせずに女中を殺してしまうような御方には、何を訴えても無駄だろう。おそらく、ナタリーもゾーイも殺される。
イザヤの行動は、ゾーイを案じたからだと気付いたとき、ナタリーは双肩に乗った命の重みを知った。
「分かったわ……」
とてつもなく重苦しいものを飲み込んだ気分になった。
喉の奥が灼けるように熱かった。
私はここで生きてゆけるのだろうか。
不安が、後から後から押し寄せてくるようであった。




