第九話 「時間《じかん》」
翌朝、奈央は研究室に閉じこもった。
テーブルに佐伯の血液サンプルと分析データを並べた。真から送られてきた化合物のデータを画面に開いた。ノートに構造式を書き込んだ。
外部ラボの完全解析結果が届いたのは昼前だった。
奈央はデータを見た。
予想より複雑だった。
化合物は二層構造になっていた。一層目は神経に作用する成分、二層目はそれを体内で徐々《じょじょ》に活性化させる補助成分だった。二つを同時に無効化しなければ対抗物質にならない。
設計が一からやり直しになった。
奈央はペンを置いた。
窓の外を見た。青い空だった。
佐伯に時間がどれだけあるか分からなかった。
昼過ぎに佐伯の病室に寄った。
容態は朝より悪かった。
血圧がまた下がり始めていた。モニターの数値が不安定に揺れていた。佐伯は目を閉じていた。呼吸は浅かった。
師長が小声で言った。
「このまま持つかどうか——」
奈央は師長を廊下に連れ出した。
「今夜が峠ですか」
「正直に言うと——そうかもしれません」
奈央は頷いた。
「分かりました。今夜中に手を打ちます」
研究室に戻ると、ドアの前に人が立っていた。
昨日廊下で見たスーツの男だった。
今日は二人いた。
「高瀬先生ですか」
「そうですが」
「少しお話を聞かせてもらえますか。厚生労働省の者です」
男が身分証を出した。本物かどうか分からなかった。
奈央は表情を変えなかった。
「今から患者の処置があります。後にしてもらえますか」
「すぐに済みます」もう一人の男が前に出た。「研究室を少し見せてもらえますか。業務上の確認です」
「令状はありますか」
男が眉を動かした。
「令状が必要な話ではありません。任意でお願いしています」
「では断れますね」奈央は鍵を握ったまま言った。「患者が優先です。用件があれば病院の事務を通してください」
最初の男が一歩踏み出した。
「先生、最近アークバイオ製薬に関する調査をされていると聞きました。何か問題がありましたか」
「何のことですか」
「データベースへの不審なアクセスが記録されています。先生のIDで」
「業務上の調査です」
「それはそうかもしれない」男は笑顔を崩さなかった。「ただ先生、一つだけ申し上げると——大きな組織を相手にするのは、個人には難しいことです。特に、証拠もなく動く場合は」
脅しだった。
丁寧な言葉で包まれた、脅しだった。
奈央は男を見た。
「患者が待っています」
それだけ言った。
二人は立ち去った。
奈央は研究室に入り、鍵をかけた。手が少し震えていた。
真にメッセージを送った。
——厚生労働省を名乗る男が二人来ました。研究室を見せろと言ってきました。
返信が来た。
——偽物です。厚生労働省に確認しました。該当する職員はいない。先生、荷物をまとめてください。研究室は今夜が最後になるかもしれない。
奈央はスマートフォンを握った。
ここまで来ていた。
夕方、大学時代の同期から連絡が来た。
「試薬、三種類とも用意できたよ。今から持っていく」
「ありがとう。助かった」
「何を作るの?」
奈央は少し間を置いた。
「人を助けるものを」
深夜、研究室で合成を始めた。
二層構造の化合物に対抗するには、二段階の合成が必要だった。手順は頭に入っていた。しかし細かい作業だった。一つ間違えれば最初からやり直しになる。
一段階目が完成したのは午前零時だった。
二段階目に入った。
一時間が過ぎた。
失敗した。
試薬の配合が合わなかった。溶液が変色した。使えなかった。
奈央は深呼吸した。
もう一度やり直した。
ゆっくり、丁寧に。
午前二時、対抗物質が完成した。
奈央は試験管を光にかざした。無色透明の液体だった。これが佐伯を救えるかどうかはまだ分からなかった。しかしやるしかなかった。
佐伯の病室に向かった。
ドアを開けた瞬間、モニターが鳴っていた。
師長が飛んできた。
「先生、血圧が——」
奈央はベッドに駆け寄った。
佐伯の顔が蒼白だった。意識が薄れかけていた。
「佐伯さん、聞こえますか」
男が薄く目を開けた。
「先生——」
「今から投与します。痛みがあるかもしれない。でも必ず効きます」
男は何も言わなかった。ただ小さく頷いた。
奈央は手を動かした。
迷いはなかった。
廊下のベンチに座ったのは午前四時だった。
対抗物質を投与して一時間が過ぎた。モニターの数値がゆっくりと安定し始めていた。まだ予断を許さない。しかし悪い方向には向かっていなかった。
真からメッセージが来た。
——無能化装置の部品が揃いました。明日から組み立てを始めます。
奈央は返信した。
——佐伯さんに対抗物質を投与しました。今夜が峠です。
しばらくして真から返信が来た。
——先生、無理しないでください。
奈央は苦笑いした。
無理しないでと言われても、する以外に選択肢がなかった。
廊下の窓から夜明け前の空が見えた。まだ暗かった。しかし東の端が少しだけ白んでいた。
奈央は目を閉じた。
五分だけ眠ろうと思った。
第九話 了




