第十話 「圧力《あつりょく》」
佐伯の熱が下がったのは夜明けだった。
モニターの数値が安定した。血圧が正常値に戻った。呼吸が深くなった。
師長が奈央の肩を叩いた。
「先生、数値が——」
「見えています」
奈央は佐伯の顔を見た。土気色だった顔に少しだけ血の気が戻っていた。眠っていた。穏やかな寝顔だった。
奈央は廊下に出た。壁に背をつけた。
誰もいない廊下で、小さく息をついた。
それだけだった。泣かなかった。泣いている時間はなかった。
午前八時、病院長に呼ばれた。
病院長の顔が険しかった。机の上に一枚の書類があった。
「座りなさい」
奈央は座った。
「昨夜、厚生労働省から病院に連絡があった」病院長は書類を奈央に向けた。「高瀬奈央の診療行為に不審な点があるという通報があったと」
「どのような不審な点ですか」
「承認されていない物質を患者に投与したという疑いだ」
奈央は表情を変えなかった。
「佐伯さんの容態が急変しました。既存の治療では対応できなかった。緊急措置です」
「それが問題だと言っている」病院長の声が低くなった。「高瀬先生、あなたは最近何をしているんだ。データベースへの不審なアクセス、外部の人間との接触——病院にまで影響が出ている」
「患者を助けるために必要なことをしています」
「しかしやり方が——」
「病院長」奈央は静かに遮った。「佐伯さんは今朝、峠を越えました。昨夜私が投与した物質が効いたからです。承認されていない物質かもしれない。しかし佐伯さんは生きています」
病院長は黙った。
「私のやり方に問題があるとおっしゃるなら、それは受け入れます。しかし今は時間がありません。話は後でさせてください」
奈央は立ち上がった。
「高瀬先生」病院長が呼び止めた。「気をつけなさい。相手は大きい」
奈央は振り返った。
「知っています」
昼休みに研究室に戻ると、ドアが開いていた。
奈央は立ち止まった。
鍵をかけて出たはずだった。
中に入った。
荒らされていた。
引き出しが全部開いていた。ノートが床に散らばっていた。パソコンの画面が開いたままになっていた。
奈央はすぐに確認した。
対抗物質の設計データが入ったフォルダが空になっていた。
真にすぐ電話した。
「研究室が荒らされました。設計データが消えています」
真は少し間を置いた。
「バックアップはありますか」
「ノートに手書きで残してあります。持ち歩いていました」
「よかった」真の声が静かだった。「しかし先生、これで向こうは本格的に動き始めています。もう病院にいない方がいい」
同じ頃、村上からメッセージが来た。
——尾行されています。今、コンビニに入って確認しました。黒いコートの男です。どうすればいいですか。
奈央はすぐに返信した。
——人の多い場所から離れないでください。真さんに連絡します。
真に転送した。
返信が来た。
——村上さんに場所を送ります。合流します。先生も病院を出てください。今夜の集合場所を変更します。
昼休みに真から電話が来た。
「先生、朝倉義雄が動きました」
「どう動きましたか」
「今朝、アークバイオ製薬の顧問弁護士が警察に告訴状を提出しました。企業秘密の不正取得と不正アクセスで——私の名前で」
「相原さんを狙ってきた」
「私だけではない。先生の名前も入っています」
「相原さん、今どこにいますか」
「安全な場所で装置の組み立てを続けています。ただ——」真の声が低くなった。「今朝、事務所に戻ったら荒らされていました。装置の設計図を探したようですが、持ち出していたので無事です」
奈央は窓の外を見た。病院の前に車が止まっていた。昨日と同じ黒い車だった。
「急いでください」
「あと三日あれば完成します。その前に一つ決めなければなりません」
「何ですか」
「無能化装置が完成したとして——どこから使いますか」
奈央はすぐに答えた。
「一番高い場所から。一番広い範囲に届く場所から」
「新宿で一番高いビルは——」
「都庁です」
真は少し間を置いた。
「都庁の屋上に入る方法を考えます。先生は引き続き証拠を集めてください」
夜、指定された場所に向かった。
千代田区の小さな事務所だった。
真と村上がいた。村上の顔が青かった。尾行を撒くのに一時間かかったという。
そしてもう一人——
五十代の女性だった。落ち着いた目をしていた。しかし手が微かに震えていた。
「元アークバイオ製薬の研究員です」村上が紹介した。「三年前に退職しました。今日、私の尾行に気づいて——この方も同じ男に尾行されていました」
奈央は女性を見た。
「mosquito-Xを知っていますか」
女性は頷いた。
「私が設計に関わりました」女性は奈央を見た。「今日、自宅のパソコンが遠隔操作されました。何かを抜き取られたようです。もう時間がないと思いました。だから出てきました」
部屋が静まり返った。
四人の間に重いものが漂った。
奈央は女性を見た。
「全部話してもらえますか。そして——話した後、一緒に動いてもらえますか」
女性は驚いた顔をした。
「動く、とは」
「証言だけでは足りない。あなたの知識が必要です」
女性は深く息を吸った。
「はい。全部話します」
第十話 了




