第八話 「証言《しょうげん》」
男の名前は村上といった。
元厚生労働省技官。定年退職まで二年を残して早期退職した。理由は体調不良と届け出た。本当の理由は違った。
「三年前の春でした」
村上はテーブルの上で両手を組んだ。
川崎にあるアークバイオ製薬の製造施設は、外から見れば普通の工場だった。
村上は案内役の社員と並んで廊下を歩いた。白衣、手袋、帽子——通常の査察と同じ手順だった。
三つ目の部屋を確認したとき、案内役のスマートフォンが鳴った。
「少しお待ちください」
社員は廊下の端に離れた。
村上は一人になった。
廊下の奥に扉があった。他の扉と同じ白い扉だった。ただ一点だけ違った。
立入禁止の札がなかった。
何かに引き寄せられた。後から考えれば、それが罠だったのかもしれない。しかし村上の手はドアノブを掴んでいた。
扉を開けた。
最初に見えたのは棚だった。
天井まで届く金属の棚が何列も並んでいた。そこに透明なケースが整然と置かれていた。ケースの中に——昆虫のような形をした何かが一機ずつ収められていた。
村上は近づいた。
蚊だと思った。
しかし蚊ではなかった。金属だった。羽が二枚あった。針のような突起が腹部に見えた。一センチにも満たない大きさだった。
棚の数を数えた。十列。一列に百ケース以上。
部屋の奥に培養槽があった。ガラス張りの容器の中に液体が満たされていた。ラベルには記号と数字だけが書かれていた。
村上はその場に立ち尽くした。
背後で足音がした。
「先生」村上は顔を上げた。「私は十秒か十五秒しかいなかった。しかしあの光景は三年経っても忘れられない」
奈央は黙って聞いた。
真も動かなかった。
「翌日、上司に呼ばれました。査察報告書から該当部分を削除するよう言われた。アークバイオ製薬は厚生労働省の重要な協力企業だと。そして——」
「家族のことを言われましたか」
村上は静かに頷いた。
「娘が当時就職活動中でした。それとなく匂わされた」
部屋が静まり返った。
奈央は怒りを抑えた。抑えながら聞き続けた。
「それから三年間、黙っていたんですか」
「黙っていました」村上は俯いた。「ずっと後悔していた。しかし怖かった。一人では何もできなかった」
「なぜ今、話してくれるんですか」
村上は顔を上げた。
「死者が三十七人になったからです」
真が静かに口を開いた。
「三十七人——今朝、四十一人になりました」
村上の目が赤くなった。
奈央は手を握った。
四十一人。
この一週間で四人が増えた。
「私が三年前に報告していれば——」村上の声が震えた。「あの人たちは死なずに済んだかもしれない」
誰も何も言わなかった。
村上が続けた。
「もう黙っていられない。娘はもう就職した。私には失うものがない」
村上の証言を真が記録した。
音声データ、書面、村上が密かに撮影していた写真——三年前の培養室の写真が三枚あった。不鮮明だったが、ケースに収まった小さな影が辛うじて確認できた。
「これで証拠になりますか」真が村上に聞いた。
「なるかどうか分からない。しかしないよりはいい」
奈央はノートを閉じた。
「村上さん、アークバイオ製薬の中でこれを知っている人間はどのくらいいますか」
村上は少し考えた。
「上層部の一部だけだと思います。現場の社員は知らない。知らされていない」
「トップは誰ですか」
「会長の朝倉です」村上の声が低くなった。「朝倉義雄。七十二歳。アークバイオ製薬を一代で築いた男です。政界との繋がりが深い。国会議員を何人も抱えている」
真がノートパソコンに朝倉義雄の名前を入力した。画面に初老の男の写真が出た。白髪、細身、温和な笑顔だった。
経済誌のインタビュー写真だった。見出しには「日本の医療を守る男」と書かれていた。
奈央はその顔を見た。
どこにでもいる老人に見えた。
しかしこの男がmosquito-Xを作った。四十一人を殺した。佐伯を今も死の淵に追いやっている。
その夜、ニュースが流れた。
画面に朝倉義雄が映った。医療功労者表彰式の映像だった。朝倉は笑顔で賞状を受け取っていた。
「日本の医療に多大な貢献をされた方です」
司会者の声が聞こえた。
奈央はテレビを切った。
「相原さん」
「はい」
「無能化装置の完成はいつですか」
「部品が揃えば五日です」
「急いでください」
奈央は立ち上がった。村上を見た。
「村上さん、もうしばらく隠れていてください。あなたの証言は必ず使います」
村上は頷いた。目に涙が浮かんでいた。
「先生」
「はい」
「間に合いますか」
奈央は答えた。
「間に合わせます」
第八話 了




