第七話 「追われる《おわれる》」
病院に戻ったのは夜明けだった。
更衣室で白衣に着替えながら、奈央は鏡を見た。目の下に隈ができていた。構わなかった。
佐伯の病室に向かった。
モニターの数値が昨夜より安定していた。顔色はまだ悪いが、呼吸が落ち着いていた。
奈央は小さく息をついた。
まだ間に合う。
午前中は通常の診察をこなした。
三人目の患者が帰り際に振り返った。六十代の女性だった。
「先生、コロナのワクチン、また打った方がいいですかね」
奈央は少し間を置いた。
「体調と相談してください。打たなければならないわけではありません」
女性は首を傾げた。
「先生はいつもそう言いますね。他の先生は打てって言うのに」
「私は患者さんに選んでほしいんです。情報を伝えた上で」
女性が出ていった後、師長が小声で言った。
「また後で院長に呼ばれますよ、先生」
「慣れています」
奈央は次のカルテを開いた。
ワクチン反対派——そう呼ばれるようになったのは五年前からだった。コロナ禍で一律接種を推奨する医療界の空気に、奈央だけが「全員に同じものを打つ必要はない」と言い続けた。患者の体質、既往歴、生活環境によってリスクは違う。それを無視した画一的な接種推進に、奈央はずっと違和感を持っていた。
異端と呼ばれた。変わり者と言われた。
しかし曲げなかった。
その違和感が今回、三十七人の死を繋げた。
昼休みに研究室に入った。
真から送られてきた化合物のデータを開いた。外部ラボの完全解析はまだ来ていなかった。しかし概要だけでも、既存の物質で対抗できる可能性が見えていた。
時間だけが問題だった。
スマートフォンが鳴った。真からだった。
「今、話せますか」
「話せます」
「昨夜の概要分析をさらに絞り込みました。外部ラボの完全解析はまだですが——この化合物、三年前にアークバイオ製薬が関連特許を申請しています」
奈央はペンを止めた。
「特許を?」
「化合物そのものではなく、周辺技術として申請している。直接の証拠にはならない。しかし一致している部分がある」
「それは——」
「ただし」真の声が低くなった。「その特許データを調べた直後から、私のネットワークに侵入の形跡があります」
奈央は立ち上がった。
「気づかれた」
「はい。今、事務所を出ています。しばらく場所を変えます」
「どこへ行くんですか」
「連絡します」
電話が切れた。
同じ頃、都内某所のオフィスで男が電話を切った。
窓のない部屋だった。モニターが三台並んでいた。
男は振り返った。奥のソファに六十代の人物が座っていた。白髪を綺麗に撫でつけた、温和な顔をした老人だった。
「医者とハッカーです」男は報告した。「特許データに触れました」
老人は窓の外を見た。窓はなかった。それでも老人は何かを見るような目をした。
「どの程度まで」
「概要だけです。完全解析には至っていない」
「時間はあるか」
「あと数日は」
老人は静かに立ち上がった。
「計画を前倒しにしなさい」
「始末しますか」
老人は首を振った。
「始末すれば騒ぎになる。監視を続けなさい。ただし——」老人は男を見た。温和な顔のまま言った。「これ以上近づくようなら、考える」
男は頷いた。
老人は部屋を出た。
廊下に出ると、秘書が待っていた。
「朝倉会長、次の会議は——」
「分かっている」
老人——朝倉義雄は静かに歩き出した。
午後の診察が終わった頃、病院の廊下で見知らぬ男と目が合った。
スーツ姿だった。患者でも見舞い客でもない雰囲気だった。奈央と目が合うと、視線を外して歩き去った。
奈央は何気ない素振りで師長に近づいた。
「さっきのスーツの男性、ご存知ですか」
師長は首を振った。
「さっき受付に来て、高瀬先生はいるかと聞いていました。用件は言わなかったそうです」
奈央は表情を変えなかった。
「分かりました」
研究室に戻り、荷物をまとめた。化合物のデータと設計ノートをバッグに入れた。佐伯の血液サンプルの残りも携帯用の保冷ケースに入れた。
真にメッセージを送った。
——病院にも来ました。私も動きます。
返信が来た。
——新しい場所を送ります。今夜そこで。
病院を出る前に佐伯の病室に寄った。
男は眠っていた。点滴が静かに落ちていた。
奈央は小声で言った。
「待っていてください」
誰に聞かせるわけでもなかった。
真が指定した場所は文京区の古いマンションの一室だった。
ドアを開けると真がいた。それともう一人——初めて見る顔だった。
六十代の小柄な男だった。白髪で眼鏡をかけていた。
「紹介します」真が言った。「元厚生労働省の技官です。アークバイオ製薬の内情を知っています」
男は奈央を見た。
「高瀬先生ですか。噂は聞いています」
「どんな噂ですか」
「ワクチン反対派の変わり者の女医だと」
奈央は苦笑いした。
「皆さん同じことを言いますね」
男は表情を緩めた。それからすぐに真剣な顔に戻った。
「実は三年前、私はアークバイオ製薬の査察に関わっていました。その時に見てはいけないものを見てしまった」
「mosquito-Xですか」
男は頷いた。
「当時は意味が分からなかった。しかし今、あなたたちの話を聞いて全て繋がった」
部屋が静まり返った。
三人の間に重いものが漂った。
奈央は男を見た。
「話を聞かせてください。全部」
男はゆっくり口を開いた。
第七話 了




