第四話 「影《かげ》」
真から連絡が来たのは深夜二時だった。
——起きていますか。
奈央はカルテの山に囲まれたまま返信した。
——起きています。
——今すぐ電話していいですか。
電話が鳴った。
「一つ分かりました。一つ分からなくなりました」
真の声は低かった。
「どちらから聞きますか」
「分かった方から」
「ナノシス・ラボの資本を知人に追ってもらいました。三段階の迂回を経て、一つの会社に行き着いた」
奈央はペンを持った。
「どこですか」
「アークバイオ製薬」
奈央は聞いたことがあった。国内大手の製薬会社だ。テレビのコマーシャルで見る名前だった。
「製薬会社が——」
「ただし」真は慎重に続けた。「資本の繋がりがあるというだけです。アークバイオ製薬がmosquito-Xを指示したとは、まだ断定できない。別の誰かがアークバイオ製薬を隠れ蓑に使っている可能性もある」
「分からなくなった方は何ですか」
「地図です」
真が言葉を切った。
「どうしました」
「今、外に車が止まっています。さっきから動かない」
奈央は窓を見た。自分のマンションの前の道路は静かだった。
「私の方は何もありません」
「先生の住所はまだ知られていないかもしれない。しかし時間の問題です」真の声が静かなまま続いた。「明日から気をつけてください。病院への経路を変える。同じ道を使わない」
「相原さんは大丈夫ですか」
「慣れています」
電話が切れた。
翌日、奈央は患者の家族に会った。
三十七人のうち、東京在住の四人の遺族だった。喫茶店を転々として話を聞いた。
最初は渋谷駅だと思った。
四人のうち三人が死亡前に渋谷を訪れていた。奈央は真にすぐメッセージを送った。
——渋谷駅かもしれません。三人が行っていました。
しかし四人目の遺族の話を聞いて、手が止まった。
四人目は渋谷に行っていなかった。しかし共通する場所が一つあった。
新宿駅だった。
三人に戻って確認し直した。全員、渋谷にも行っていたが新宿にも行っていた。渋谷は偶然の一致だった。
奈央は真にメッセージを送り直した。
——渋谷ではありませんでした。四人全員、新宿駅に行っていました。
返信が来た。
——大阪の遺族にも確認できますか。梅田駅との関連を調べています。
三日後、真から地図が送られてきた。
東京は新宿駅周辺、大阪は梅田駅周辺、名古屋は名古屋駅周辺、福岡は博多駅周辺——全ての死亡例が主要ターミナル駅の半径二キロ以内に集中していた。
その夜、二人は秋葉原の事務所で向かい合った。
「放出ポイントは駅構内ですか」
「おそらく」真は地図を指さした。「ただし確信はない。駅周辺の商業施設という可能性もある。絞り込むには現地で確認するしかない」
「どうやって設置するんですか」
「小さな装置があればいい。ゴミ箱の裏、ベンチの下、柱の陰——どこでも置ける。ただしそれを見つける方法が私には分からない。先生、医療用の微細センサーのような機材に心当たりはありますか」
「少し考えます」
奈央は地図を見つめた。
「今も駅に装置があるということですか」
「ある可能性が高い」
「警察に——」
「証拠がない」真は静かに遮った。「今の段階では医者と元ハッカーが妄想を語っているだけです。アークバイオ製薬は上場企業で、政界とのつながりも深い。しかもアークバイオが本当に黒幕かどうかも、まだ分からない」
奈央は椅子の背にもたれた。
天井を見た。
「つまり私たちだけで動くしかない」
「今は」
沈黙が続いた。
真がキーボードを叩き始めた。
「mosquito-Xを無能化する方法を調べています。電磁波の周波数で制御系を破壊できる可能性がある。ただし設計図がなければ正確な周波数が分からない。手探りです」
「ただし?」
「装置を作るには時間がかかる。その間にも——」
真は言葉を止めた。
その間にも誰かが刺される。
「急いでください」
奈央は立ち上がり、コートを手に取った。ドアに向かいながら振り返った。
「相原さん、あなたはなぜホワイトハッカーになったんですか」
真は画面を見たまま答えた。
「昔、大切な人を守れなかった」
それ以上は言わなかった。
奈央もそれ以上は聞かなかった。
第四話 了




