第三話 「追跡《ついせき》」
神保町を出たのは夕方だった。
二人は並んで歩いた。真はノートパソコンの入ったバッグを肩にかけ、前を向いたまま話した。
「まず確認したいことがある」
「何ですか」
「三十七人の行動範囲です。死亡前の一週間、どこにいたか」
「カルテには載っていません」
「家族から聞けますか」
奈央は考えた。
「何人かは聞けます」
「都市部に集中しているということは、放出ポイントがあるはずです。mosquito-Xは自律飛行するが、射程距離がある。無限には飛べない」
奈央は地図を思い浮かべた。東京、大阪、名古屋、福岡——点が集まっている場所がある。
「駅ですか」
「人が密集する場所です。駅、商業施設、イベント会場——そこから放出すれば効率がいい」
奈央は足が止まりそうになった。続けて歩いた。
「つまり、今も飛んでいる可能性がある」
「高い」
二人は黙った。交差点を渡った。雑踏の中に蚊の羽音に似た何かを奈央は探してしまった。
見えるはずがない。〇・三ミリだ。
翌朝、奈央は病院に出勤した。
ナースステーションに入ると、師長の顔が固かった。
「先生、昨日厚生労働省のデータベースにアクセスしましたか」
「しました」
「今朝、病院に照会が来ました。何を調べたか報告するようにと」
奈央は表情を変えなかった。
「分かりました。対応します」
自分のデスクに戻り、すぐに真にメッセージを送った。
——動きがありました。データベースのアクセス履歴を誰かが見ています。
返信は即座だった。
——想定内です。今夜会いましょう。場所を変えます。
指定された場所は秋葉原の古いビルの一室だった。
真がすでにいた。部屋にはモニターが三台並んでいた。
「ここは?」
「知人の事務所です。今月は使っていない」
真はモニターの一つを奈央に向けた。
「見てください」
画面にはアクセスログが表示されていた。
「昨日先生が厚生労働省のデータベースにアクセスした直後、別のIPアドレスが同じデータを閲覧しています。ログの解析は知人に頼みました。私一人では時間がかかる」
「誰かが監視していた」
「データベース自体に監視プログラムが仕込まれている。原因不明死亡例を検索した人間を自動的に追跡するように設定されていた——そこまでは分かりました。ただしアクセス元の特定にはもう少し時間がいります」
奈央は椅子に座った。
「最初から罠だったということですか」
「罠というより——」真はモニターを見たまま言った。「気づかれたくない人間がいるということです」
「アクセス元は分かりますか」
「今夜中に知人が絞り込んでくれるはずです。ただ——」真は少し間を置いた。「企業名らしきものは一つ出ています」
画面に文字が浮かんだ。
「ナノシス・ラボ」
奈央には聞いたことのない名前だった。しかし真の手が一瞬止まった。
「知っていますか」
「名前だけは」真は静かに言った。「表向きはAI開発の研究企業です。規模は小さい。しかし出所が不明な資金で動いている会社です」
「表向きは」
「裏が何かはまだ分からない。もう少し時間をください」
モニターの光だけが部屋を照らしていた。
奈央が帰ろうとしたとき、真が呼び止めた。
「先生、少しいいですか」
真がモニターの一つを切り替えた。防犯カメラの映像だった。
「今日の昼間、この事務所の前の通りを撮影したものです」
白黒の映像だった。人が行き交う昼下がりの秋葉原の路地だった。
「どこを見ればいいですか」
「右上です。街灯の近く」
奈央は目を凝らした。
最初は何も見えなかった。
真が映像をコマ送りにした。
街灯の脇に、小さな光点が一瞬だけ映っていた。蛍のように見えた。しかし蛍ではない。軌跡が直線的すぎた。蛍は揺れながら飛ぶ。これは違った。まるで——
「蚊みたいな飛び方ですね」奈央は静かに言った。
「蚊より速い。そして直線的です」
二人はモニターを見つめた。
光点は二秒後に映像の外に消えた。
それだけだった。
しかし奈央の背筋が冷えた。
仮説ではなくなった。
「相原さん」
「はい」
「私たちは正しいことをしていますか」
真は答えるまでに少し間があった。
「正しいかどうかは分からない。ただ——」
モニターから目を離し、奈央を見た。
「三十七人は本当に死んでいる」
奈央は頷いた。
それだけで十分だった。
その夜、秋葉原の窓ガラスに一瞬だけ何かが止まった。
〇・三ミリの影だった。
気づいた者は誰もいなかった。
第三話 了




