第二話 「専門家《せんもんか》」
西田から送られてきた名前をスマートフォンで検索した。
相原真。三十六歳。元ホワイトハッカー。現在はフリーランスのAIセキュリティ専門家。公式サイトも事務所もない。連絡先はメールアドレスが一つだけだった。
奈央はメールを書いた。
件名に迷った。「相談があります」では軽すぎる。「緊急」では大げさかもしれない。
結局こう書いた。
——人が死んでいます。原因がAIかもしれない。データがあります。
送信した。
返信は三分後に来た。
——明日十四時。神保町の珈琲店「キリン」。データを持参してください。
神保町の古い雑居ビルの二階だった。
ドアを開けると煙草の匂いと古本の匂いが混ざっていた。カウンターに白髪の老主人が一人。客は窓際に一人だけだった。
細身の男がノートパソコンを開いて座っていた。コーヒーには手をつけていない。
奈央が向かいに座った。男は画面から目を離さなかった。
「高瀬奈央先生」
「そうです」
「西田から聞きました」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
「データを」
奈央はファイルを置いた。三十七件の死亡例、皮膚所見の写真、地図に落とした分布図。
真は無言で読み始めた。
老主人がコーヒーを二つ運んできた。奈央は飲んだ。真は飲まなかった。
十分が過ぎた。
真はページを戻し、皮膚所見の写真を拡大鏡で見た。持参していたのか、胸ポケットから自然に取り出した。
さらに五分が過ぎた。
「先生」
「はい」
「この痕の直径を計りましたか」
「〇・三ミリから〇・五ミリの間です」
真は拡大鏡を置いた。眼鏡を外し、目を閉じた。しばらくそのままだった。
奈央は待った。
真が目を開けた。
「先生はこれを何だと思いますか」
「蚊のような何かだと思っています」奈央は真を見た。「AIかもしれない。馬鹿げていると思いますか」
真はすぐには答えなかった。
眼鏡を戻し、もう一度写真を見た。それからノートパソコンに向かい、何かを検索し始めた。
奈央は黙って待った。
真が言った。
「以前、似たような案件を調べたことがあります。三年前です。アメリカで昆虫サイズのドローンに関する研究が報告されていた。当時は軍事利用の理論段階でした」
「今は?」
「理論上は可能です」真は慎重に言葉を選んだ。「ただし実用化されているかどうかは別の話です。これがそうだと断定するには、まだ証拠が足りない」
「可能性はありますか」
真は少し間を置いた。
「否定できない」
店内が静かだった。老主人が食器を洗う音だけが聞こえた。
奈央はノートを開いた。昨夜書いた文字が目に入った。
mosquito-X
「これを見てください」
真はノートを見た。表情が動いた。
「あなたが名付けたんですか」
「昨夜、自然に出てきました」
真はノートをテーブルに置いた。窓の外を見た。神保町の昼下がりの街に人が行き交っていた。
どこかで蚊が一匹飛んでいるかもしれない。あるいは蚊ではないものが。
「相原さん」
「はい」
「協力してもらえますか」
真は窓から目を離し、奈央を見た。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「怖くないんですか」
奈央は即答した。
「怖いです。でも三十七人が死んでいる」
真は小さく頷いた。
「分かりました」
コーヒーを飲み干した。
第二話 了




