第一話 「異変《いへん》」
※この物語に登場する人物、企業、団体はすべて架空のものです。実在する個人、企業、団体とは一切関係ありません。
梅雨明け前の蒸し暑い夜だった。
高瀬奈央は電子カルテの画面を睨んだまま、冷めたコーヒーに口をつけた。苦い。それでも飲んだ。
三人目だった。
今月だけで三人。原因不明の多臓器不全。四十代、六十代、二十七歳——年齢も性別も既往歴も共通点がない。なのに死に方が同じだった。
奈央はカルテを閉じ、解剖所見のファイルを開いた。
三人全員の皮膚に、直径一ミリ以下の微細な痕があった。虫刺されに似ているが、虫刺されではない。報告書では「原因不明の皮膚所見」として処理されていた。誰も気にしていなかった。
奈央だけが気になった。
翌朝、医学文献を漁った。
感染症、寄生虫、神経毒、環境汚染——考えられる全ての可能性を調べた。夜が明けても調べ続けた。
何もなかった。
過去の医療文献のどこにも、この死に方は載っていなかった。
奈央はペンを置いた。
医療は過去の積み上げでしかない。人類が経験したことしか記録されていない。ならばこれは——人類がまだ経験したことのない何かだ。
窓の外に目をやった。雨上がりの朝の街が白く霞んでいた。
その日の午後、奈央は厚生労働省のデータベースに接続した。
全国の原因不明死亡例を検索する。条件は三つ。多臓器不全、直近六ヶ月、皮膚の微細な痕。
結果が出た。
三十七件。
奈央は画面を見つめたまま動けなかった。全国で三十七人が同じ死に方をしていた。しかも全員「原因不明」として処理されている。
誰も繋げていなかった。
奈央だけが繋げた。
彼女はデータを印刷し、床に並べた。地図に落とすと、点が都市部に集中していた。東京、大阪、名古屋、福岡——人が密集する場所ばかりだった。
自然現象ではない。
奈央の中で何かが確信に変わった。
深夜、一人でノートに書き続けた。
病気ではない。感染症でもない。しかし人が死んでいる。皮膚に微細な痕がある。都市部に集中している。
ペンが止まった。
——自然発生では説明できない。
感染症であれば無作為に広がるはずだ。しかし点は都市部だけに集まっている。農村には一件もない。これは広がり方ではなく、置き方に近い。
——誰かが、作った?
奈央はペンを持ち直した。
あの微細な痕。注射針より細く、虫の針に近い。しかし虫ではない。自然界に存在しない精度だった。人工的に——誰かが意図して作った何かが、あの痕を残した。
——兵器?
馬鹿げている。そう思った。しかし否定できなかった。生物兵器でも化学兵器でもない。もっと小さく、もっと精密な何か。
——自律的に動く何か?
手が止まった。
人工的に作られ、都市部を選び、対象に近づき、刺す。それが意図して設計されているとしたら——制御する何かが必要だ。プログラムされた、自律的な——
——AI……?
奈央はノートを閉じた。立ち上がり、窓を開けた。夜風が入ってきた。どこかで蚊が一匹、耳元を掠めた。
払いのけながら、奈央は呟いた。
「いったい、何だ」
翌朝、奈央は大学時代の同期、西田に電話した。
「AIの専門家を知らない?」
第一話 了




