第十四話 「解放《かいほう》」
九時になった。
奈央はボタンを押した。
装置が低い音を立てた。
アンテナが震えた。
真がモニターを見た。数値が急激に変化した。
「周波数、照合完了。mosquito-Xの制御系に到達しています」
奈央は手を離さなかった。
ボタンを押し続けた。
風が来た。強い風だった。髪が乱れた。構わなかった。
眼下の新宿の街が朝日に輝いていた。無数のビルが光っていた。道路に車が走っていた。人が動いていた。
あの街に今、見えない何かが落ちていった。
無数の小さな機械が、制御を失って落ちていった。
誰も気づかなかった。
それでよかった。
奈央は空を見た。
雲がなかった。
青い空だった。
何かが溢れてきた。怒りでも悲しみでもなかった。四十一人の顔が浮かんだ。名前も知らない人たちだった。しかし死に方だけを知っていた。
佐伯の顔が浮かんだ。
今頃病室で朝食を食べているかもしれなかった。
村上の背中が浮かんだ。
追跡者に向かって歩いていった老いた背中だった。
奈央は空を見上げたまま言った。
「神様って本当にいるの?」
風が吹いた。
「神様が居るんだったら、これ以上人間を犠牲にしないで!」
声が新宿の空に消えた。
誰も笑わなかった。
篠田が泣いていた。
真がモニターを見たまま動かなかった。その目が赤かった。
五分後、真が言った。
「全域で反応が止まりました」
「新宿だけですか」
「大阪、名古屋、福岡——全ての放出ポイントで同時に止まっています。篠田さんの設計図のおかげで全国のmosquito-Xの周波数が一致していた」
奈央は手を離した。
ボタンから手を離した瞬間、膝が震えた。気づかれないように屋上のフェンスに手をついた。
「全部止まったんですか」
「全部です」
奈央はフェンスを握ったまま、しばらく動けなかった。
風が吹いた。
誰にも見えないところで、目を閉じた。
三秒だけ。
それだけで十分だった。
スーツの男二人はまだそこにいた。
しかし動かなかった。
真のスマートフォンが鳴った。マスコミからだった。
「配信が始まりました。各社同時です」
男の一人がスマートフォンを取り出した。画面を見た。顔が変わった。もう一人に見せた。
二人は顔を見合わせた。
それから静かに屋上を出ていった。
逃げるように。
三人だけになった。
篠田がフェンスに手をついて泣いていた。声を出さずに泣いていた。
真が装置の電源を切った。アンテナを畳んだ。スーツケースに収めた。それだけ終えて、フェンスの前に立った。
新宿の街を見た。
奈央も見た。
街は変わらなかった。車が走っていた。人が歩いていた。どこかで工事の音がした。
しかし何かが変わった。
見えないところで、確かに何かが変わった。
真が口を開いた。
「先生」
「はい」
「昔、大切な人を守れなかったと言いましたね」
「覚えています」
「今日は守れました」
奈央は真を見た。
真は街を見たままだった。眼鏡の奥の目が静かだった。
奈央は何も言わなかった。
言わなくてよかった。
屋上を出た。
非常階段を降りた。展望台を抜けた。エレベーターで一階に降りた。
都庁の正面玄関を出た瞬間——
村上が立っていた。
無事だった。
篠田が走り寄った。村上の手を握った。村上は照れくさそうに笑った。
「追跡者は途中で引き返しました。マスコミの配信が始まったからでしょう」
奈央は村上を見た。
「ありがとうございました」
「いや——」村上は首を振った。「私こそ」
四人は都庁の前に立った。
新宿の朝の風が吹いた。
九時三十分、最初のニュース速報が流れた。
街頭の大型モニターに速報テロップが出た。通勤客が足を止めた。スマートフォンを取り出す人間が増えた。
SNSに「mosquito-X」という言葉が溢れ始めた。
十時、各局がニュースを切り替えた。
篠田の設計図が画面に映った。村上の証言が流れた。新宿駅の配線カバーに偽装された装置の写真が公開された。
十一時、アークバイオ製薬の本社前に報道陣が集まった。
正午、警察が動いた。
その日の夕方、朝倉義雄の行方が分からなくなった。空港の出国記録はなかった。国内のどこかに潜伏しているとも、すでに国外にいるとも言われた。捜査が始まった。逃げ切れる場所はなかった。時間の問題だった。
深夜、奈央は病院に戻った。
佐伯の病室に寄った。
男は眠っていた。穏やかな寝顔だった。点滴はなかった。
奈央は小声で言った。
「終わりました」
それだけ言った。
廊下に出た。
窓から夜空を見た。
星が出ていた。
蚊の羽音は聞こえなかった。
奈央は窓枠に手をついた。
誰もいない廊下だった。
ゆっくりと、額を窓ガラスに当てた。
冷たかった。
それだけで十分だった。
第十四話 了




