第十三話 「決行《けっこう》」
朝五時に目が覚めた。
奈央はすぐに着替えた。昨夜用意していたバッグを手に取った。中身を確認した。対抗物質のサンプル、分析データ、ノート——全部あった。
真にメッセージを送った。
——起きています。
即座に返信が来た。
——装置の最終確認が終わりました。八時に新宿駅南口で。
外に出ると空が白んでいた。
梅雨が明けていた。久しぶりに雲がなかった。
奈央は歩いた。
タクシーは使わなかった。電車も使わなかった。記録を残したくなかった。四十分かけて歩いた。
新宿駅南口に着いたのは七時五十分だった。
真がいた。黒いスーツケースを持っていた。無能化装置が入っていた。
村上と篠田も来ていた。
四人は目で挨拶した。言葉はいらなかった。
「行きましょう」奈央が言った。
都庁に向かって歩き始めた。
新宿の朝は早かった。通勤客が歩いていた。清掃車が通った。どこにでもある朝の風景だった。
五分も歩かないうちに真が小声で言った。
「後ろ、二人います。昨日から見ている顔です」
奈央は振り返らなかった。
「どのくらいの距離ですか」
「五十メートルほど」
「都庁まであと何分ですか」
「このペースで十分」
「走りますか」
「人混みに紛れた方がいい」
四人は歩調を変えなかった。
靖国通りを渡った。都庁が見えてきた。
真がまた言った。
「四人になりました」
村上が奈央の隣に来た。小声で言った。
「私が引きつけます」
「駄目です」
「先生、私には失うものがない。行ってください」
奈央は村上を見た。
「村上さん——」
「三年間の罪滅ぼしです」村上は静かに笑った。「行きなさい」
村上が立ち止まった。後ろを振り返り、追跡者に向かって歩き始めた。
奈央は前を向いた。
走り出した。
走りながら、振り返りたかった。
振り返らなかった。
振り返れば足が止まる気がした。
都庁の正面玄関を抜けた。
篠田が警備員に近づいた。顔見知りの職員に連絡を取ってあった。二分後、私服の男性職員が現れた。
「篠田さん、急ぎましょう」
三人がエレベーターに乗った。
展望台へ。
エレベーターの中で真がスマートフォンを確認した。
「マスコミ六社から連絡が来ています。準備完了だそうです」
「時間は」
「九時に一斉配信の手はずです」
奈央は時計を見た。八時二十分だった。
四十分ある。
展望台に着いた。
職員が非常階段のドアを開けた。
「ここから上です。屋上まで三階分あります。私はここまでしか——」
「十分です」篠田が言った。「ありがとう」
職員が去った。
三人は階段を上がった。
真がスーツケースを抱えた。重そうだった。奈央が反対側を持った。
一階分上がった。
二階分上がった。
息が切れた。
三階分上がった。
ドアがあった。
奈央が押した。
風が来た。
新宿の空が目の前に広がった。
眼下に街が広がっていた。無数のビルが朝日に光っていた。道路に車が走っていた。人が豆粒のように動いていた。
あの街のどこかにmosquito-Xが飛んでいた。
今この瞬間も誰かが刺されているかもしれなかった。
真がスーツケースを開いた。無能化装置を取り出した。アンテナを伸ばした。電源を入れた。モニターに数値が流れ始めた。
「周波数を合わせます。二分かかります」
奈央は街を見た。
篠田が隣に立った。
「先生」
「はい」
「怖いですか」
「怖いです」
篠田は頷いた。
「私もです」
真が言った。
「準備できました」
奈央は装置に近づいた。
赤いボタンがあった。
時計を見た。八時五十五分だった。
奈央はボタンに手をかけた。
その時、屋上のドアが開いた。
男が二人入ってきた。
スーツだった。昨日病院に来た男たちだった。
一人が言った。
「高瀬先生、そこから離れてください」
奈央は離れなかった。
男たちが近づいてきた。
篠田が前に出た。
「私が設計者です。私の話を聞きなさい」
男が篠田を押しのけた。もう一人が装置に向かって手を伸ばした。
「壊させない」
真が男の腕を掴んだ。体重をかけて押し返した。男が真を壁に押しつけた。
奈央はボタンから手を離さなかった。
もう一人の男が奈央に近づいた。
「先生、離れてください。最後の警告です」
奈央は男を見た。
その瞬間、真が別のスマートフォンを取り出した。壁に押しつけられたまま、片手で掲げた。
「今の映像はマスコミ六社にライブ配信されています」
男たちが止まった。
「あなたたちの顔も映っています」
男たちが顔を見合わせた。
奈央は時計を見た。
八時五十八分。
街を見た。
新宿の朝の空に、見えない無数の何かが飛んでいた。
五十七分。五十八分。五十九分——
奈央はボタンに手をかけた。
残り六十秒。
五十秒。
男たちがまだそこにいた。動かなかった。しかし装置には近づかなかった。
四十秒。
三十秒。
篠田が男たちの前に立ちはだかったまま動かなかった。
二十秒。
十秒。
奈央は街を見た。
深く息を吸った。
第十三話 了




