エピローグ 「その後」
一ヶ月が過ぎた。
朝倉義雄は東南アジアのある国で身柄を確保された。
逮捕の映像がニュースで流れた。空港の通路を歩く朝倉の姿だった。白髪を乱した老人だった。しかし顔は穏やかだった。記者が一人、マイクを向けた。
「朝倉会長、一言お願いします」
朝倉は立ち止まった。カメラを見た。温和な笑顔のままだった。
「私はただ——人類の未来のためにやった」
それだけ言った。
連行されていった。
奈央はそのニュースをスマートフォンで見た。
何も言わなかった。
言葉が見つからなかった。
テレビの画面が切り替わった。
ニュースの見出しが流れた。
「AIマイクロドローン規制、国会審議へ」
「アークバイオ製薬役員十七人逮捕」
「mosquito-X被害者遺族、集団提訴へ」
世界が動き始めていた。
村上は証人として国会に呼ばれた。
白髪の老人が議員たちの前で三年間の沈黙を詫びた。その映像がニュースで流れた。
村上の娘からメッセージが来た。
——父がようやく眠れるようになりました。ありがとうございます。
奈央は返信した。
——村上さんが動いてくれたから終わりました。
篠田は大学に戻った。
専門は遺伝子工学のままだった。しかし研究テーマが変わった。mosquito-Xへの対抗技術を研究し始めた。
「同じことが起きたとき、すぐに止められるものを作ります」
奈央に会ったとき、篠田はそう言った。
作ったものへの責任を、作り続けることで果たそうとしていた。
佐伯は退院した。
退院の日、奈央に頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございました」
「よかったです」
「あの——蚊の話ですが」佐伯は照れくさそうに笑った。「テレビで見ました。新宿駅で刺されたんですね、私」
「そうです」
「先生は最初から知っていたんですか」
奈央は少し考えた。
「疑っていました」
「なぜ助けられたんですか」
「あなたが最初に気づかせてくれたからです」
佐伯は首を傾げた。
「私が?」
「新宿駅で何かが頬を掠めたと言いましたね。あの言葉です」
佐伯は目を丸くした。それから笑った。
「蚊だと思ったんですよ」
「蚊でした」奈央も笑った。「蚊みたいな何かが」
相原真は次の仕事に移っていた。
mosquito-Xの一件で名前が知られた。AIセキュリティの依頼が増えた。しかし仕事を選んでいた。
ある夜、奈央に短いメッセージが来た。
——昔守れなかった人は、妹でした。十年前に原因不明の病気で死にました。今ならあの病気の原因が分かるかもしれない。調べています。
奈央はしばらくメッセージを見つめた。
返信した。
——一緒に調べます。必要なら。
真からの返信は短かった。
——ありがとうございます。
秋になった。
奈央は病院の屋上に出た。
夕暮れ《ゆうぐれ》の新宿が見えた。都庁のシルエットが夕日に染まっていた。あの屋上に立ったのが遠い日のように感じた。
風が来た。
涼しい風だった。
蚊の羽音は聞こえなかった。
当たり前だった。秋だった。
しかし奈央は知っていた。
mosquito-Xは終わったが、別の何かが始まっているかもしれない。朝倉義雄一人が考えたことではない。同じことを考えている人間が、世界のどこかにいる。
技術は止まらない。人間の業も止まらない。
それでも——
奈央は空を見た。
星が一つ出ていた。
気づく人間がいる限り、終わらせられる。
それだけを信じることにした。
病院に戻った。
廊下に患者が一人、点滴を引いて歩いていた。
「先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
奈央は白衣の袖を直した。
歩き出した。
仕事が待っていた。
── 完 ──




