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子爵令嬢ちゃんは、10時に馬車で家を出て、150㎞離れた辺境伯邸に12時に到着しました。さて、馬の脚力やばくね?  作者: 忍者の佐藤


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2

 ◆





 そして茶会の日がやってきた。



 会場はシモンの実家、バレク侯爵邸の庭だ。俺にとっては都合の良いことに、パドックから見える場所にテーブルがある。

 セナが馬好きということを知って、シモンがその場所に決めたらしい。


「シモン様、改めて今日はお招き頂きありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ来てくださり嬉しいですよ」

 シモンは女性受けの良さそうな甘い笑みを浮かべつつお辞儀を返す。


「セナ嬢は今日もお美しいですね」

「まあ、ありがとうございます」


 二人の談笑はつつがなく続く。さあ、噛んでやるからこっちに来い、シモン。心配するな、先っちょだけ。先っちょだけだから!





「少し歩きませんか。あちらでユリが綺麗に咲いているのです」

「まあ、本当ですか?」


 二人は立ち上がり、歩いていく。くそっ、呑気に花なんか見てる場合じゃ……と思った時だ。

 シモンが傍に立っていた執事を、一瞬、凝視した。執事は軽く頷いた。何かの確認だろうか。

 俺はそれが妙に気になり、執事の様子を見つめていた。



 セナたちが生垣の方へ消えていった時、執事に動きがあった。

 ポケットから何かを取り出し、セナの席に近づいていく。

 俺は思わず「あっ!」と叫びそうになった。


 そいつはセナの紅茶に白い粉末を流し込み始めたのだ。


 あれが砂糖でないことは馬でも分かる。

 恐らくは媚薬。シモンルートの中で、彼が媚薬を使おうとする話が出てくるのだ。


 なるほど、やはりあいつは結婚する前から外道だったわけだ。これで遠慮なくぶっ飛ばせる。


 粉末を流し終わった執事が、こちらに背を向け、遠ざかっていく。その瞬間、俺は地を蹴って飛び出した。

 セナのカップを鼻先でひっぱたき、ひっくり返す。

 執事がこちらを向いたその時、俺は後ろ足で地面を抉り上げていた。


 めくりあがった土が、もろとも執事の顔に命中する。


「目がっ! 目があぁっ!!」


 執事がふらふらと屋敷の方に退散していくのをしり目に、俺は急いでパドックに戻った。

 ちょうどその時、生垣の後ろからセナたちが帰ってきた。


 シモンは怪訝そうな顔をしてる。

「あれ、どうしてカップが……」

「きっと風が吹いたのですわ」

 セナは気にしていない風だが、シモンは辺りを見回している。執事を探しているのだろう。

「ふふっ、こんなこともあります。私はお花を見られるだけで満足ですから、気にしないで下さい」

 セナは100点満点の対応をする。

「で、ですが……」




 シモンは納得していないらしく首を傾げている。

 直ぐに一人のメイドが屋敷からやって来た。さっきの執事が代役を寄越したのだろう。

 メイドによって紅茶が注がれ、二人は会話を再開した。さあ、ショータイムだ。


「それでこの前の夜会では……」


 ヒヒーン!

 シモンの声をぶった切るように俺は鳴いた。力いっぱい嘶いた。


「あ、アレクセイ王太子と会う機会がありまして……」


 パヒーン!  ブルルッ! ブルルルルルルルルッ!


「挨拶をさせて頂いたのd」


 ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!! メエメエ!! パオーン!!!!


「とてm」


 スルボボッ! ボボボボボッ!!! ホホホホホホホイッスル! ピッピーw!







 シモンがとてつもない鬼の形相で俺をにらんできた。一瞬。それもセナに気付かれないようにであるが。いいぞ、怒れ怒れ、もっと怒れ。セナの前で本性を現しやがれ。




「ご、ごめんなさい、ヴィートはいつも大人しいんですけど……」

「あははっ、構わないさ。慣れない環境で興奮しているだけだろう。僕も馬が好きだからね、これくらい慣れっこさ」




 そう言ってシモンは俺の方に近づいてくる。

「良い馬じゃないか」

「そうでしょう? ヴィートはとても賢くて、優秀な馬なの。今まで一度も人を噛んだことが無いのよ」

「そうかそうか」


 シモンは俺の首筋を撫でる。男に撫でられても何も嬉しくねえ。

 セナがこちらから目を外した。紅茶のことで、メイドと何かを話しているようだ。その時だった。


 強い衝撃が俺の鼻先を襲った。

 視界が黒く、白く、せわしなく入れ替わる。

 思わず後ずさりした。


 目を開けた時、シモンが笑いながらこちらを見ていた。

 何が起こったか直ぐに分かった。

 こいつ、俺を殴りやがった。 親馬にも殴られたことないのに!



「いやぁ、本当によく手入れされてるねぇ」


 シモンは何事も無かったかのように俺を撫で続ける。ああ、こいつは痛い目に遭わせておかないと、絶対にダメなタイプの人間だ。

 馬を殴るやつは人間だって殴る。

 しかも俺が噛まない馬だと聞いた瞬間に殴りやがった。抵抗できない弱者だけに強く出るタイプの馬糞野郎だ。

 よーし、ぶっ殺しちゃお★




「そうでしょう、本当に優しくて、人懐っこくて……」


 言いながらセナが近づいてくる。

 俺は柵から首を一気に乗り出させ、口をガッパァッと開け、シモンの頭にバッコリ噛みついた。


「あだだだだだだ!!!!」


 シモンは痛みから逃れようとじたばたしている。


「ヴぃ、ヴィート、放しなさい!!」


 俺はシモンの身体をぐいーんと持ち上げ、首をヴォオオン、と右に左に大きく振り回した。


「ヴィート!?」


 そして遠心力と仲良しになったシモンを、おもっくそ右側に放り出した。

 シモンの身体は美しい放物線(アーチ)を描き、見事、山積みになっていた藁(わら)草にズボォと突き刺さった。


「し、シモン様ぁ!!!」


 セナとメイドが慌ててシモンの方に向かう。つま先しか出ていないシモンの身体を必死に引っ張り出していた。

 セナに感謝しろよ。ここにセナが居なかったらあと1000000回くらいぶっ飛ばしてたところだ。


「は、はは、はは、だ、大丈夫大丈夫、やんちゃな馬だなぁ、もう」


 口では笑っていたが、目は鋭く、まるで親の仇かのように俺を睨んでいる。


「おいフランソワ、セナ嬢をいったん貴賓室に案内して差し上げろ。ここで茶会をするのは危険だ」

「ですがシモン様は……」

「僕は藁を払ったらすぐ向かう」

「か、かしこまりました」

 フランソワと呼ばれたメイドは、セナを促して屋敷の方へ移動していく。


 二人の背中が見えなくなった時だ。

「さて」

 シモンが俺の方を見た。その端正な顔からは笑顔が抜け落ち、目には底抜けの殺意が宿っている。成程、まさに人殺しの目をしている。


「おい馬、よくもこの僕をコケにしてくれたな」

 ゆらゆらとこちらに向かってくる。

「そんなに痛い目にあいたいんだったら、あわせてやるさ」


 シモンは懐から何かを取り出した。


 注射器だ。


「安心しろ、殺そうってんじゃない。これはただちょっと強力な鎮静剤さ。いつか抵抗された時、セナさんに使おうと思ってたんだが……ふふっ、しかしこの量。馬でも再起不能になるかもな」


 何この歩く薬機法違反。

 滅茶苦茶危ない奴じゃねーか。



「動くなよぉ。じっとしていればすぐ終わるからな!」


 シモンは柵を乗り越えると猛然と俺の方にダッシュしてきた。

 俺は背、というか尻を向けて逃げる。

「待てこらぁ!」


 シモンが追いついてきて、注射器を振りかぶる、そのタイミングで後ろ足を振り上げた。

 俺の蹄はちょうど、シモンの手首を捉えた。

「ぐわっ!」


 シモンはうめき声をあげ、注射器を放り出していた。


「ちぃっ、このくそ馬、殺してやる。殺してやるぞ!」

 シモンが懐からナイフを取り出した、その時。


 シモンの頭にプスーッ、と注射器が刺さった。

 さっき彼が手放し、天高く放り投げられていたものだ。

 何が起こったか分からなかったようで左右を見たり上を見たりしている。


 そして自分の頭を探り、注射器が刺さった事実に気付いたのか、一瞬で青ざめた。







「う、うわあああ! どうしよう! 鎮静剤が! さ、さささあささささささささ…………」


 じたばたと慌てていたシモンが急にふにゃんとなった。

 軟体動物のようにぐなぐなしながら座ると、遠い目をして空を眺め始める。


「僕は何と欲深い生活を送ってきたのだろう。空はこんなにも青いというのに」


 急にポエムじみたことを言い始めた。


「馬さん、さっきは殴ってごめんね。代わりに僕のお尻を蹴っても良いよ」


 そう言って尻を突き出してくる。

 やめろ気色悪い。それお前がケツ蹴られたいだけじゃねーのか。


 今度はスクリと急に立ち上がり、こちらを向いた。

「決めた。僕は全ての煩悩を捨ててフードファイターになるよ」


 いや全く煩悩捨てられてないよ。食欲全開じゃねえか。


 シモンは抜け殻のような眼で唐突に立ち上がると、すたすたと門の方へ歩いていった。





 ※ ※ ※




 暫く待っているとセナが帰ってきた。おう、死亡フラグは潰しておいたぜ。安心しろ。

 俺は得意げに頭を上下させた。しかしセナの顔色が暗い。


「どうしてあんなことしたの!」

 俺の傍に来るなり叫んだ。セナの怒った顔を初めて見た俺は面食らった。

「シモン様の頭を噛んで振り回すなんて、もし彼が大けがしたらどうするのよ!」


 いやいや、あいつが先に俺のこと殴ったんだぞ。いやそれより、お前はシモンに殺されるところだったんだ。それを回避したんだから感謝されこそすれ、怒られる筋合いなどない。



 俺はプイッと顔を背けた。


「こっちを見て」


 セナは俺の顔の両側を掴み、自分の方を向かせた。ちょっとイラっとした。


「あなたはそんな子じゃなかったはずよ」


 鬱陶しいな。俺の何を知ってるっていうんだ。


「どうして……、今まで絶対人を噛んだりしなかったのに。シモン様は屋敷を飛び出したそうよ。相当ショックだったのね」


 あいつが勝手に自滅しただけだし……。


「私、シモン様を探しに行く。あなたは侍女たちを連れて先に帰っていてね。私は別の馬車で帰るから」


 お、おい。あんな奴に慈悲をかける必要なんかねえよ。一緒に帰ろうぜ。

 しかし言葉が出るわけでもなく、したがって伝わりもしない。


 遠ざかるセナを俺は、柵を超えて追いかけた。一人で行かせるのは危ないと思ったからだ。

「ついてこないで!」


 セナは俺に背を向けたまま叫んだ。今まで聞いたことのない声量だった。

 ……何だよ、その言い方。俺はお前を助けるためにやっただけなのに、どうしてキレられないといけないんだ。俺は内に湧いてくる怒りを必死に押し殺した。今までセナに対して抱いたことのない感情だった。


「大きな声を出してごめんなさい」


 幾分か冷静な声だった。しかし俺の方には振り返らず、そのまま歩いていく。

 あー、はいはい。分かったよ。

 行きたきゃ勝手にしやがれ。もう死亡フラグは回避したんだ。お前の傍にいる必要は無くなったわけだし、好きにさせてもらう。

 じゃあな。



 ぶすーっ、と強く鼻から息を出しながら、俺もセナに背を向けた。そして彼女の言った通り、侍女のみを連れて屋敷に帰った。


 セナが帰って来たのは次の日になってからだ。

 厩を掃除する馬丁たちの話から、二人の婚約は解消されたこと、そしてシモンは寿司職人を志していることが分かった。



 ◆



 同じ日の夕暮れ。

 そろそろセナがブラッシングしに来てくれる頃だ。いや、今日は来ないだろうか。……べ、別に期待してるわけじゃないんだからね!

 でもあのままケンカしっぱなしというのも、後味が悪い。

 今考えればセナが怒るのもしょうがないことだった。

 俺の不始末は、飼い主である彼女の責任。きっと昨日は侯爵家に対して謝罪し通しだったに違いない。

 何とか仲直り出来ないだろうか。




 そう思っていた時だった。右前方、三馬身ほどの距離に、大きな姿見のようなものが浮いてるのが見えた。鏡面は湖のように、静かに波打っている。

 ぬぅっ、と鏡から顔が現れた。

 もし俺が人間だったら腰を抜かしてひっくり返っていたことだろう。


「やあ、木林君……今はヴィートだったかな。久しぶりだね」

 聞き覚えのある声だった。


 全身が姿見から出てきて、ようやくその正体が分かった。

「こんにちは、神様だよ」

「何だ、あんたか」

「何だとはずいぶんなご挨拶だね」

 神は肩をすくめた。

 この人とは馬の姿でも会話が成立するらしい。


「で、神様が何の用だ? また無理難題を押し付ける気じゃないだろうな」

「まさか、その逆だよ」

「逆?」

 神は両手を広げ、満面の笑みになった。

「君はシモンルートを回避した。約束を果たしてくれた。だから今度は僕の番だ」

「そ、それってつまり?」


 俺は馬房からにゅいっと頭を出して神に近づけた。


「おめでとう、君を日本に返してあげよう。勿論500万円の資金を持った状態でね」

「や、やったー!!!」


 俺は前足を上げ、何度もいなないた。

 帰れる。日本に! しかも姉ちゃんに渡す資金が十分にある。

 でも……。俺の幸せムードいっぱいの脳裏をセナの顔が過った。


「なあ神様、もうちょっと待ってもらえないか」

「無理だ」

「え、無理なの?」


 予想外の返答だった。神は自分が出てきた鏡を指さす。


「あれが日本とつながるゲートなんだが、僕の力ではあと10分くらいしか開けていられない」

「何でそんなに短いの?!」

「そもそも、この世界に入るのもかなり苦労したんだ。僕はこの世界の創造主ではないからね。次はもう入ってこれないかもしれないし、ラストチャンスだと思ってくれ」


 確かにセナとこのまま別れるのは後味が悪い。だが人生には代えられない。トータルでみたらこの異世界生活も楽しかったし、満足だ。


「じゃ、帰るか」


 俺がいつものように馬房の扉を自力で開け、外に出た時だった。

 屋敷の外から、馬の足音が聞こえてきた。蹄が石畳を叩く高い音が規則正しく響く。

 かなりの速度で走っているようだ。

 どんどん近づいてくる。

 それはこの屋敷の前で止まった。


 ぎぎっ、と音を立てて鉄製の門が開いたかと思うと、一人の男が入ってきた。屋敷に向かって全力疾走していく。


「何があったんだろう」

「よし、聞いて来よう。大丈夫、僕は普通の人間には見えないから」


 神はフワッと浮き上がると、屋敷の方に飛んでいった。

 数分後、戻って来た時、深刻そうな顔をしていた。


「攻略対象の一人にランドルフって居ただろう?」

 セナの幼馴染だ。不吉な予感が腹に満ちてくる。

「あいつに何かあったのか」

 難しそうな顔をして頬をかく神。

「彼、急性の病気で倒れたらしいんだ。どうやら普通の治癒魔法では治せないらしくて……だから藁にもすがる思いで優秀な聖女であるセナの力を借りようと、早馬を乗り継いできたらしい」


 確かにセナは聖女として素晴らしい力を持っている。公式設定だ。


「こんな展開、ゲームにあるのか?」

 神は首を振った。

 この世界は、100%原作のイベントを再現する場ではないのかもしれない。イレギュラーだってあるのだろう。


「ランドルフはかなり危険な状態だそうだ。使者が出た段階で、既に『持ってあと数日だ』と医者から言われたらしい。間に合わせるには一か八か、『魔の森』を突っ切るしかないと言っていた」


 魔の森とは、この子爵領とランドルフの住む辺境伯領の境界線沿いにある、深い森のことだ。そこには強いモンスターが密集しており、名うての冒険者が数十人隊列を組んで、ようやく通れるような場所だった。

 勿論使者も迂回してここに来た。

 俺ならば――。と、思う。

 俺なら森を突っ切れる。だがそうすると――。


 俺が何も言えずにいると、神は幾らか低い声で言った。


「ゲートはあと3分程しか開いていない。僕としてはセナの命を救ってもらっただけで十分だ。彼女の幼馴染が死ぬのは心苦しいが、君との約束は反故に出来ない。何よりヴィート、さっきも言った通り、こここで帰らないと一生帰れない可能性が高いよ?」



 立ちすくんだ。

 俺は十分やった。日本に帰って良いという思いと、ここで姿を消せばセナが悲しむという思い。

 二つの気持ちの乗った天秤があって、見事に釣り合っているようだった。


 どうしても姉ちゃんに金を渡したい理由があった。

 俺が小さい頃に両親は亡くなった。それでも何とか成人するまで生きてこれたのは、姉がバイトを掛け持ちして働き、生活費を工面してくれたからだ。

 本当は高校も行きたかっただろうし、精いっぱい青春したかったはずだ。でも俺のために諦めた。


 その彼女が結婚する。相手は大工で、会わせてもらったこともあるが、男気のある良い人だった。

 ただいかんせん、二人とも貯金がない。

 姉はこれまで俺のために使ってくれていた期間が長いし、相手の男性はまだ新人で、工具を揃えていたらカツカツなのだという。

 そして結婚式を控えたタイミングで姉の妊娠が発覚。しかも双子。

 結婚前に、しかも金もないのに子供を作るなんて……という意見も分かる。だが俺はそんな姉ちゃんの力になりたかった。恩返ししたかった。

 そのためにどうしても数百万円、お祝い金として渡したかったのだ。


 今、恩返しできるチャンスが目の前にある。



「さあ、どうする?」



 神はゲートと俺を交互に見ながら言った。そろそろ、時間だ。


 俺は……。

 いや、答えは最初から決まっている。


 一歩づつ、俺はゲートに向けて歩き出した。




 ◆◆◆ ◆◆◆




 ランドルフが急病だと聞き、私はいてもたってもいられず、身支度を整えて外に飛び出した。侍従が止めても全て振り切った。

 まさか彼が。信じられなかった。信じたくなかった。

 助けられるのは自分だけ。なんとしても彼のところに行かねばならない。


 もう間に合わないかもしれない。それでも一縷の望みがあるとしたら、ヴィートの力を借りることだけだった。

 彼に乗って魔の森を突っ切るのだ。



 けれど、と思う。

 自分は昨日、ヴィートに対して酷い態度を取ってしまった。頭の良い馬だから、自分が何を言われたか分かっていただろう。


 そして今朝、私に同行して侯爵家について来ていた侍女から、ヴィートに関して思いがけないことを聞いた。


 屋敷内で待機させられていた彼女は、侯爵家の執事が私のティーカップに何かを入れる様子を、たまたま窓から目撃した。

 慌てて外に出ようとしたところ、ヴィートがそのカップを地面に落としたのだという。その執事が何を入れようとしていたかは分からない。


 けれどヴィートが私を助けようとしていたのだとすれば、シモン様にだけ攻撃的だったのにも合点がいく。

 だとしたら私は本当に申し訳ないことをしてしまった。謝って許して貰えるか分からない。でも……。



 厩に到着した私は急いでヴィートの馬房を覗いた。

「えっ」

 思わず声を出してしまった。

 もぬけの殻だった。

「ヴィート?」

 他の馬房も一つ一つ見て回ったけれど彼は居ない。

 みるみる身体から力が抜けて、へたり込んでしまった。諦観が身体に押し寄せてくる。

 そうだよね、と思う。

 あんなことがあって、こんな所に居たくなんか、ないよね。


 ヴィートは恐らく野生に帰ったのだ。彼ならどこに居たって上手くやれるだろう。


 私は柵の木に掴まりながら何とか立ち上がった。涙を拭いながら外に出る。

 落ち込んでいる場合ではない。このままではランドルフが死んでしまう。


 兵士や冒険者を連れて魔の森を突っ切る算段を、頭の中で組み立てていた。幾ら危険でも構わない。

 ランドルフには幼い頃命を救って貰った恩がある。私だって命を賭けなければ。

 そう自分に何度も言い聞かせ、震えながら前へ、前へと足を踏み出す。

 どう考えても間に合わない。そう思いながらも、歩みを止められなかった。


 門までの距離が、途方もなく遠く感じる。意識まで遠のきそうだ。その時。



 ヒヒン! と一つ、馬のいななく声が響いた。

 厩の裏手の方からだった。急ぎ回り込んで目にした光景に、私は一度止めたはずの涙が、また止められなくなった。


 ヴィートが私の方を見て、頭を上下に大きく動かしていた。


「乗れよ」


 そう言ってくれている気がした。





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