北門の記録
呼び出しは、翌日の朝一番に来た。
ギルド三階、支部長代理室。重厚な机の向こうに、その男は座っていた。
「君が、ヴェスタくんか。掛けたまえ」
バルガス・クレイン。五十絡みの、恰幅のいい男だった。壁には軍時代の勲章が飾られ、机の上は定規で測ったように整然としている。元隊長どのは、如才ない笑みを浮かべていた。
「勇者の剣の一件、見事だった。ギルドとしても鼻が高い。……ときに君、ドゥーガルの遺品を担当しているそうだね」
「正式な依頼ですので」
「うん、うん。仕事熱心は結構。だがね」
バルガスは指を組み、笑みを消さないまま、声だけを一段冷やした。
「あれは触らんほうがいい類の案件だ。臆病者の遺品など、調べたところで誰も幸せにならん。娘には気の毒だが、世間の記憶が薄れるのを待つのが、あの子のためでもある」
「検死記録の閲覧を却下されたのは、それが理由ですか」
「無関係な記録だからだよ。死因は凍死。争いの余地がない」
「死因を確かめるための閲覧を、死因を理由に断られると、手詰まりでして」
一瞬、部屋の空気が張った。バルガスは笑みを深くした。
「――ヴェスタくん。君の鑑定所の営業許可、更新月が近かったね。Fランクの個人営業は、更新の審査もいろいろと、細かくてね」
来たか。
「勇者の件で名が売れて、気が大きくなるのは分かる。だが増長は身を滅ぼすぞ。……分を弁えた鑑定士には、ギルドは今後もいい仕事を回す。そういう話だ」
「ご忠告、痛み入ります」
俺は立ち上がり、一礼して、扉の前で足を止めた。
「最後に一つだけ。支部長代理は五年前、北門におられたそうですね。……グレン・ドゥーガルは、本当に逃げたんですか」
「逃げたとも」
即答だった。よどみなく、まばたきもせず。
「私はこの目で見た。あの男は持ち場を捨てて、真っ先に門の内へ走った。……この答えで満足かね?」
「ええ。とても」
嘘つきの証言は、それ自体が上等な証拠だ。あとは、突き合わせる「物」を見つけるだけ。
「――で、私のところに来たわけですか。現金な人ですねえ!」
王都瓦版社の資料室で、ピナ・クォートは椅子ごとこちらに向き直った。埃っぽい書架の谷間に、過去紙面の綴りが山と積まれている。
「この前は門前払いしたくせに。記者を便利な倉庫か何かだと」
「取引だ。北門関係の過去記事を見せてくれ。代わりに――そうだな。この件が終わったら、あんたにだけ話せることを一つ、話す」
ピナの手が、止まった。
「……一面級ですか?」
「瓦版の見出しになる程度には」
ピナの丸眼鏡が、きらりと光った。五分後、俺とフィーネの前には五年前の紙面の山が積まれていた。現金なのはどっちだ。
「北門攻防の第一報はこれです。『北門守備隊の殿、壊滅。殿より生還は盾士一名』――この時点では、誰も臆病者なんて書いてません」
「変わるのは……三日後か」
三日後の紙面から、論調が一変する。『生き残りの盾士、持ち場を放棄か』『軍関係者、証言』。以後は雪崩だ。臆病者、恥知らず、英雄の面汚し。
「火元は全部『軍関係者の証言』。つまり、公式報告です」
フィーネが紙面を睨んで言った。報告を上げたのは誰か。あの夜の北門で、報告書に署名できる立場の人間は一人しかいない。
ピナが速記帳に何かを走り書きし、丸眼鏡を押し上げた。すっかり、記者の目になっている。
汚名は、戦場で生まれたんじゃない。三日かけて、机の上で作られたんだ。
午後、ガルドが「貸し二つ目だぞ」と言いながら、一冊の綴りを帳場の下から滑らせてきた。
「北門守備隊には、ギルドから徴用された冒険者が八人いた。徴用の規定でな、軍の戦況報告書の副本がギルドにも保管される。……軍本体の原本は無理でも、こいつは俺の管轄だ」
五年前の戦況報告書、副本。報告者の署名は、バルガス・クレイン。
俺は片眼鏡を直し、頁を目で舐めるように検めていった。文面はよどみない。魔物の第三波接近、防衛線の維持困難、撤退命令の発令、しんがり配置、そして壊滅――
指が、止まった。
「フィーネさん。ここ、どう見える」
『撤退命令発令、亥の二刻』の一行。その「亥の二刻」の部分だけ、墨の色がわずかに沈んで見える。羊皮紙の表面に、目を凝らさなければ分からないほどの、浅い段差。
「……書き直して、あります?」
「ああ。一度削って、上から書いてる。刻限だけをな」
撤退命令の、時刻の改竄。
まだ「何時から何時に」書き換えたのかは分からない。だが、報告書の中で最も動かしてはならない数字に、削り跡がある。それだけで十分だ。この報告書は、どこかで嘘をついている。
「これ、原本と突き合わせられれば……」
「原本は軍の書庫だ。今の俺たちじゃ届かない。――だが、届かせる方法を考える。物証ってのはな、一つ見つかれば、次の在処を教えてくれるもんだ」
その夜、店じまいの頃。
扉が、遠慮がちに叩かれた。開けると、大きすぎる前掛けの少女が立っていた。額に汗が浮き、肩で息をしている。北区からここまで、走り通してきたのか。
「ミレイユ? 叔母さんの家は」
「……抜けてきた。だって」
少女は俯いて、前掛けの裾を握った。
「お盾、まだここにあるって言ったから。……ちょっとだけ。ちょっとだけ、見たくなって」
フィーネが黙って中に招き入れ、倉庫から預かってきた大盾の覆いを外した。ミレイユは近寄らず、少し離れたところから、傷だらけの鋼を長いこと見上げていた。
「……お父さん、約束したの」
ぽつりと、言った。
「次の誕生日は、収穫祭に連れてってくれるって。人混みは苦手だけど、お前とならって。……その前の年は、この熊をくれた。夜なべして彫ったって、指に絆創膏いっぱい貼って」
前掛けのポケットから、木彫りの熊が覗いていた。
「みんな、お父さんは約束を破ったって言う。仲間との約束を破って、逃げたって。……でもね、おじさん。お父さんはあたしとの約束、一度だって破ったことないの。一度も、ないのに」
込み上げるものを、少女は歯を食いしばって呑み込んだ。泣き方を我慢する癖まで、ついてしまっている。
俺は盾を見た。三百七十一の傷を正面に受けた、沈黙の証人を。
――なあ、グレンさん。あんたの言葉を、そろそろ聞かせてもらう。
明日、この盾を視る。




