すまん、すまん
この日視たものを、俺はたぶん生涯忘れない。ただ、先に一つだけ断っておく。――死者の記憶は、時に、持ち主自身にさえ嘘をつく。
遺読には、作法がある。
と言っても、じいさんから教わったわけじゃない。この力に名前をつけて、決め事をこしらえたのは俺自身だ。一つの遺品につき、一度きり。だから視る前に外側を調べ尽くす。視る時は、死者に一礼する。それだけの、俺だけの作法。じいさんが生きてたら、行儀だけは褒めてくれたかもしれない。
「反動、大丈夫ですか。前のときは鼻血が」
「膝をついたら支えてくれ。……それと、これを」
俺はフィーネに手拭いを渡し、大盾の前に立った。朝の鑑定所。扉には「本日休業」の札。万全の態勢だ。
一礼して、白手袋を外す。
「――聞かせてくれ、グレンさん」
素手で、把手を握った。
燐光。浮遊感。そして――
――寒い。
骨まで凍る寒さだった。夜。狭い路地。降り始めの粉雪が、視界の端で街灯の魔光に光っている。
石畳に、座り込んでいる。壁に背を預けて。立ち上がろうという気配が、この身体のどこにもない。遠くで酔漢の歌が途切れ、あとには雪の降る音だけが残った。世界に置き去りにされたような、深い夜だった。
酒瓶が、手の横に転がっていた。
右手は、懐の中で何かを握り込んでいる。ごつごつした、小さな木の塊。……彫りかけだ。熊の子を彫った、その途中の。
そして左手だけが、傍らに立てかけた大盾の縁に、そっと置かれている。家も名誉も失った男が、最後まで手放さなかった一枚に。
ああ、これは。世間の言う通りの姿じゃないか。酒に溺れた臆病者が、冬の路地で野垂れ死ぬ、その最期の――
『……すまん』
声が、した。この身体の、喉から。
『すまん。……すまんなあ……』
低い、砂利のような声だった。誰に向けてかも分からない謝罪を、吐息と一緒に、何度も、何度も。
これじゃ、まるで。
罪を悔いる男の、懺悔じゃないか。
違う、と思いたかった。だがこの記憶はグレン・ドゥーガル自身の身体だ。感情ごと流れ込んでくる。胸を塞ぐ、鉛のように重いこれは――後悔だ。まぎれもない、五年ものの後悔。
その時。
身体が、ふっと軽くなった。
いや、違う。軽くなったんじゃない。抜けていくんだ。体の芯で燻っていた熾火のような熱が、栓を抜かれたように、すうっと――
この感覚を、俺は知っている。
雨の夜の、勇者の最期と、同じだ。
グレンの視線が、緩慢に持ち上がった。路地の入り口。降る雪の向こうに、誰かが立っている――かに見えた。だが遠すぎる。暗すぎる。輪郭さえ定かじゃない。
それでもグレンは、抵抗しなかった。
逃げも、叫びもしなかった。ただ、微かに笑った気配がして。
『……ミレイユ』
最後の吐息で、娘の名前と。
『祭りは……悪いが、父ちゃんは……』
そこで、視界が砕けた。
「――っ、は……!」
気がつくと、フィーネの腕が俺を支えていた。鼻血が、手拭いに落ちる。心臓が耳の裏で鳴る。いつもの反動。だが今回は、それだけじゃなかった。
寒い。
真夏の朝だというのに、指先が凍えている。死者の五感は、こんなところまで置いていくのか。
「どう、でしたか」
フィーネの問いに、俺はすぐには答えられなかった。
視えたものを、そのまま言えばこうなる。酒瓶の横で座り込み、謝罪を繰り返しながら、抵抗もせず死んでいった男。
「……正直に言う。世間の筋書きを補強しかねない記憶だった」
俺は視えたものを全部話した。寒さも、酒瓶も、すまんの繰り返しも。フィーネの顔が、話すほどに曇っていく。
「後悔してた、ってことですか。逃げたことを」
「そう読める。読めるが――引っかかる」
フィーネが眉を寄せて、続きを待つ。
「どこがです」
「三つある」
俺は指を折った。
「一つ。最後に呼んだのは仲間の名前じゃない。娘の名前と、祭りの約束だった。五年前の戦場を悔いる男が、死の間際に見るのは戦場じゃないのか?」
二本目の指を折る。
「二つ。あの熱が抜ける感覚。あんたの兄さんの最期と、同じものがあった。凍死ってのは、あんなふうに『外から栓を抜かれる』ものじゃない」
「三つ目は?」
「グレンさんは、路地の入り口の『誰か』を見ても、驚かなかった」
抵抗しなかったんじゃない。あれは――受け入れていた。まるで、来ることが分かっていたみたいに。
「それと、これは四つ目かもしれないが……あの人は右手に、彫りかけの木彫りを握ってた。熊の子だ。ミレイユの棚にあった熊と、対になる」
「誕生日の、次の……」
フィーネの声が掠れた。凍える路地で、死にゆく男が最後まで手放さなかったのは、酒瓶のほうじゃない。娘への、次の約束のほうだった。
「……でも、ロイドさん。それ、全部あなたの解釈ですよね」
フィーネの言葉は、静かだが的を射ていた。
「遺読で視えるのは、その人の見たまま、感じたまま。なんですよね? だったら『すまん』の相手も、後悔の中身も、視えた側が読み違えることだって」
「――ああ。その通りだ」
俺は頷いた。むしろ、よくぞ言ってくれた。
「遺読は真実を映さない。死者の主観を映すだけだ。死者ってのはな、フィーネさん。生きてる人間と同じくらい、誤解して、思い込んで、自分を責めながら死ぬんだ」
だから、記憶は羅針盤にしかならない。針の指す先を確かめるのは、いつだって物証の仕事だ。
「グレンさんの『すまん』が誰への謝罪なのか。あの後悔が何の後悔なのか。それを決めるのは俺の感想じゃない。――北門で何があったかという、事実だけだ」
卓の上には、昨日の戦況報告書の副本。刻限に削り跡のある、嘘つきの文書。
そして俺の頭の中には、昨夜のミレイユの声。お父さんはあたしとの約束、一度だって破ったことないの――
あの「すまん」の宛先が、仲間ではなく娘なのだとしたら。あの人が呑み込んだまま死んだ未練は、きっと一つしかない。
――娘に、俺は逃げなかったと、伝えたい。
ただ、それだけだ。そしてそれは、俺の感想なんかじゃ果たせない。北門の真実を、物証で組み上げるしかない。
「調べることが、二つに増えた。五年前の北門の真実。それと」
俺は窓の外、北の空を見た。
「半年前の路地で、グレン・ドゥーガルの『栓を抜いた』のは誰か、だ」
勇者と、盾の英雄。手口が同じなら、下手人も同じ側にいる。
――死んだ英雄は、二人とも「英雄紋」を持っていた。
その符合に、俺はまだ、名前をつけられずにいた。




