五年前の北門
「証人捜し、ですか? でも五年間、北門の生き残りで口を開いた人なんて、一人もいませんよ」
ピナが資料室の紙面をめくりながら首を傾げた。俺は首を振った。
「本隊の連中は当てにしてない。五年黙り通した人間は、これからも黙る。理由はまだ分からんが、揃いも揃って沈黙してるってこと自体が、何かある証拠だ。……だから狙いを変える」
「変えるって、どこに」
「あの夜、殿が壊滅するより前に、負傷して門の内へ後送された兵だ。担架で運ばれた人間なら、退がったことに一点の後ろ暗さもない。しかも負傷者は名簿に残る。ガルドさんの徴用名簿と、瓦版の負傷者名簿を突き合わせれば――」
「……いた」
フィーネが、名簿の一点を指で押さえた。
ドナン・ロッツ。当時三十八歳、槍兵。北門の戦いで左脚を失い、除隊。現住所、北区七番通り。
職業、靴屋。
北区七番通りの靴屋は、革と蝋の匂いがした。
「――帰んな」
義足の男は、俺たちが名乗り終える前に、そう言った。作業台から顔も上げない。節くれだった手が、黙々と靴底を縫っていく。
「北門の話は、しねえ。誰にもだ」
「ドナンさん。俺はグレン・ドゥーガルの遺品の鑑定を」
「隊長殿の犬か? なら余計に話はねえ」
隊長殿、ときた。バルガスの息がここにも届いているらしい。俺はフィーネと目を見交わし、それから懐の包みを、作業台の上にそっと置いた。
開いた布の中身は、盾の拓本だった。三百七十一の傷を、一枚ずつ写し取ったもの。
「……なんだ、こりゃ」
「グレンさんの大盾の傷です。全部で三百七十一。一つ残らず、正面に受けた傷だ」
ドナンの手が、止まった。
「背面は無傷でした。あんたは槍兵だ。五年、あの人の隣で戦った。この傷の意味が分からないとは言わせない」
長い、長い沈黙があった。
やがてドナンは針を置き、義足を引きずって店の扉を閉め、閂を掛けた。戻ってきた男の顔は、五年分老け込んで見えた。
「……あの夜、俺は第二波で脚をやられた。担架で門の内に運ばれたのが、戌の刻だ。忘れもしねえ。門の詰め所の鐘が、ちょうど鳴ってた」
「戌の刻」
報告書の撤退命令は、亥の二刻。一刻以上も後だ。
「担架の上から、見たんだよ。伝令が走ってきて、叫んでた。『撤退命令! 全隊、門内へ後退!』ってな。戌の刻にはもう、命令は出てたんだ」
「……報告書には、亥の二刻と」
「嘘だ」
ドナンは吐き捨てた。
「命令が出て、真っ先に門をくぐったのが誰だったか、教えてやろうか。担架の俺とすれ違いに、馬で駆け込んできやがった。隊旗も置き去りでな。――バルガス・クレイン隊長殿、その人だよ」
店の中が、しんとした。
「指揮官が消えて、撤退は潰走になりかけた。門は狭え。全員が我先に殺到すりゃ、魔物の第三波に背中から食い破られて全滅だ。……そこで、あの人が残った」
「グレンさんが」
「『俺が塞ぐ。順に退がれ』ってな。命令でも何でもねえ。あの人は自分で殿に立って、志願した十数人と一緒に、隊の連中が退がりきるまで門の外を塞ぎ続けた。……俺が最後に見たあの人は、盾一枚で第三波の正面に立ってたよ」
それが、三百七十一の傷の正体か。
フィーネが、震える声で訊いた。
「なら、どうして……どうして誰も、本当のことを言わなかったんですか。あなたも、他の後送された人たちも、見ていたのに」
「――恩給だよ、嬢ちゃん」
ドナンは、自分の義足を拳で叩いた。
「戦死者の遺族恩給。負傷兵の傷病恩給。徴用の身でも、あの戦は軍籍扱いだからな。裁定するのは軍で、書類を握ってるのは生き残った指揮官サマだ。噂が流れたのさ。『妙なことを言い立てる奴が出れば、北門の件は指揮系統の崩壊、つまり規律違反による壊滅として再裁定される』とな。そうなりゃ、死んだ連中の遺族の恩給は消える。俺のこの脚の分もだ」
「そんな。人質じゃないですか」
「そうだよ。俺たち全員、死んだ仲間の女房子供を人質に取られたんだ。……で、一番重てえ荷物を背負ったのが、あの人だった」
ドナンの声が、初めて湿った。
「一度だけ、酒場で会った。あんた一言言えば汚名なんぞ晴れるだろうって、俺は言ったんだ。そしたらあの人、笑ってよ。『俺一人が臆病者なら、死んだ連中は英雄のままだ。悪くねえ取引だろ』……ってな」
――すまん。すまんなあ。
凍える路地の、あの声が耳の奥で蘇った。
あれは逃げた懺悔なんかじゃない。守り切れなかった十数人への、恩給の枷で口を封じられた五年間への、そして父親を臆病者の娘にしてしまった、ミレイユへの――
あの人は死ぬまで、盾だったのだ。
「……ドナンさん。その話、公の場で証言してもらえますか」
「恩給の話を聞いてなかったのか?」
「枷ごと、外します。物証を揃えて、恩給に指一本触れさせない形で。それが揃うまで、あんたの名前は出さない」
ドナンは長いこと俺を睨み、それから、ふっと息を吐いた。
「……勇者の剣の鑑定士、だったな。瓦版で読んだぜ。商会相手に一歩も引かなかったって」
「今回の相手は、もう少し面倒ですが」
「はっ。上等だ」
店を出たのは、日暮れ時だった。
七番通りの角を曲がったところで、前に三人、後ろに二人。見覚えのある種類の連中が、道を塞いだ。
「墓守の先生よお。北区は物騒だ。妙な年寄りの家を嗅ぎ回ってると――」
「悪いが」
俺は、フィーネより先に一歩出た。
剣は持っていない。だが、もう要らない。胸の奥のあの重みに、俺は静かに触れた。
――借りるぞ、相棒。
青白い燐光が、素手の俺の背後に立ち上がる。足裏が石畳を掴み、世界がゆっくりになる。
「妙な年寄りじゃない。英雄の戦友だ。……覚えて帰れ」
背後で鋼の音が二度、澄んで鳴った。フィーネが後ろの二人を、抜き打ちの峰で沈めた音だ。なら、前の三人は俺の分。
三十秒後、路地に伸びた五人を跨いで、俺たちは帰路についた。仕込みが早い。ドナンの店を張っていたのだ。つまり連中の雇い主は、こっちの動きを正確に読んでいる。
「ロイドさん。ドナンさん、一人にして大丈夫でしょうか」
「明日の朝一番で、ガルドさんに保護を頼む。今夜だけは……」
その「今夜」が、甘かった。
深夜。鑑定所の扉を、拳が乱打した。駆け込んできたのは七番通りの夜番で、その男は肩で息をしながら叫んだ。
「靴屋が――ドナンの店が、燃えてる!」




