恩給の枷
七番通りに駆けつけた時、靴屋は火柱になっていた。
バケツの列が夜番の号令で動き、隣家への延焼をかろうじて食い止めている。俺は人垣をかき分けて、毛布にくるまった義足の男を見つけた。
「ドナンさん!」
「……よお、先生。ひでえ晩だ」
煤だらけの顔で、ドナンは笑ってみせた。腕に軽い火傷。夜番の男が寝付けずに見回りをしていて、窓の割れる音に気づいたのが幸いだった。
「油の壺を投げ込まれた。プロの仕事だ。……なあ先生よ、こいつは俺への口止めか? それとも」
「両方でしょう。脅しと、証拠隠滅と」
燃えているのは店だけじゃない。あの店には、ドナンの五年間があった。除隊した槍兵が、義足で一から覚えた靴作りの、道具と型の全部が。
「……すまない。俺があんたを訪ねたせいだ」
「馬鹿を言うな」
ドナンは、燃え落ちる梁を見たまま言った。
「火をつけたのは俺じゃねえし、先生でもねえ。あの野郎だ。……なあ、分かるか先生。俺はいま、生まれて初めて清々してるんだ。五年間、恩給の枷だの何だのと自分に言い訳して黙りこくってた口が、たった今、軽くなった」
義足の男は、俺に向き直った。火明かりの中で、槍兵の目をしていた。
「証言する。どこでだろうと、誰の前でだろうと。……あの人の汚名、剥がしに行くぞ」
ドナンの身柄は、その夜のうちにフィーネが引き受けた。
「うちに来てください。……兄の家に」
勇者アルヴィスのタウンハウス。相続が済んだ今、あの家の主はフィーネだ。そして王都広しといえど、勇者の家に火をつける度胸のある者はいない。ガルドが信用できる元冒険者を二人、護衛に手配した。
「これで役者は揃った。あとは舞台ですが……」
問題はそこだ、と俺は帳場の椅子に沈み込んだ。
証人はいる。盾の傷がある。報告書の削り跡がある。今朝がたガルドが「貸し三つ目だぞ」と唸りながら出してくれた、徴用組の戦没記録もある――北門で死んだ冒険者の遺体は、全員が門の外、殿の位置で固まって回収されていた。逃げ散った隊の死に方じゃない。
物証は、揃いつつある。だが、これを持ち込む先がない。軍は五年前の案件を再調査しない。ギルドの上層は当のバルガスだ。商務院は管轄外。
それに――枷の外し方を、間違えるわけにはいかない。
「フィーネさん。これだけは順番を守る。俺たちが証明すべきは『バルガスが嘘をついた』であって、『北門守備隊が規律を失って壊滅した』じゃない。命令は出ていた。隊は命令通り撤退した。グレンさんの殿は命令違反じゃなく志願だ。……この形なら、戦死者の名誉も遺族恩給も、一切傷つかない。倒れるのはバルガス一人だ」
「でも、どうして刻限なんて改竄したんでしょう。逃げた事実を隠すだけなら、要らない嘘に思えます」
「逆だ。あの改竄こそが、枷の南京錠なんだ」
刻限を後ろへずらしておけば、命令通りに退いた本隊が、丸ごと「命令より先に逃げた連中」に化ける。誰かが妙な証言をすれば、いつでも隊の全員を規律崩壊の共犯に仕立て直せる。バルガスは五年前のあの机の上で、部下全員の口に錠を掛けたのだ。
「真実の、切り出し方ってことですか」
「そうだ。雑に切れば、ドナンさんたちの五年間の沈黙が全部無駄になる」
翌日の昼、ミレイユが店に来た。もう三度目だ。叔母の家より、ここのほうが呼吸が楽らしい。フィーネが出す麦湯を両手で持って、少女はぽつりと言った。
「……北区で火事があったって。お父さんのことを調べてる人の店だって、噂で」
子供の耳は、大人が思うより早い。
「ねえ、おじさん。お父さんのこと、何か分かったの」
俺は、言葉を選んだ。喉まで出かかっている。あんたの父さんは英雄だ。誰も見捨てちゃいない。最後まで盾だった。今すぐ、そう言ってやりたい。
だが――証明できない真実は、この子を二度傷つける。
俺が言い、世間が嗤い、また覆らなかったら? 「臆病者の娘」の次は「往生際の悪い娘」だ。この子に渡すべきは、慰めの言葉じゃない。誰にも二度と覆せない、証明された真実だ。
「……調べは、進んでる。もうすぐだ」
「もうすぐって、いつ」
「近いうちに、でかい音がする。それが合図だ」
ミレイユは頬を膨らませ、「大人はいっつもそれ」と言った。まったくだ。俺は苦笑して、それでも約束だけはした。
「音が鳴ったら、一番最初にあんたに報せる。約束する」
「……指切り」
差し出された小さな指は、水仕事のあかぎれだらけだった。小指を絡めながら、俺は胸の内で誓った。あんたの父親は約束を破らない男だった。なら、その遺品を預かった俺も、破るわけにはいかない。
「でかい音」は、思ったより早く、思わぬ方向から鳴った。
夕刻、ギルドの使者が持ってきたのは、一通の召喚状だった。
――ロイド・ヴェスタ。貴殿に対し、下記事由により懲戒審査を実施する。
事由一、依頼権限を逸脱した記録閲覧の試み。事由二、預かり遺品の無断持ち出し(盾の拓本の件だろう)。事由三、ギルド関係者への風説の流布。審査の結果によっては、鑑定士資格の剥奪、および営業許可の取り消しもあり得る――
署名、審査委員長バルガス・クレイン。
「……あの野郎、先に仕掛けてきやがった」
ガルドが拳を震わせた。「すまん坊主、俺が推薦人なのに、庇いきれんかった。審査ってのは名ばかりだ。あの人が委員長じゃ、結論は決まってる」
「室長」
俺は召喚状を、もう一度最初から読み直した。
公開審査。日時、五日後。場所、ギルド大会議場。審査には支部の幹部職員が立ち会い、被審査人には弁明の権利が認められる――弁明の、権利。
笑いが、込み上げてきた。
「ロイドさん……? なんで笑ってるんですか」
「フィーネさん、こいつは召喚状じゃない。招待状だ」
舞台がない、と昨日嘆いたばかりだった。軍は動かない、ギルド上層は敵、商務院は管轄外。北門の真実を持ち込む「公の場」が、どこにもなかった。
それを向こうから、用意してくれた。
「望むところだ。――公開の場で、弁明の権利ってやつを、たっぷり使わせてもらう」
弁明の材料は、盾の傷と、削られた報告書と、五年間口を封じられた証人。それから、門の外で固まって眠っていた、殿の連中の戦没記録だ。
でかい音を鳴らす準備は、できている。




