場末の鑑定所
嵐のような数日が過ぎて、鑑定所には嵐の前と同じ朝が来た。
違うのは、店の中が少し、賑やかになったことだ。
「ロイドさん! 見て、姐さんの剣、今日も曇り一つなし!」
朝稽古帰りのカヤが、背中の双剣ごと胸を張る。その頭上で翠の霊が『拭き方が雑』『鍔の裏の油が厚い』と、うるさく飛び回っている。
「……リタさんが、鍔の裏の油が厚いそうだ」
「うっ。……姐さん、死んでもそういうとこ変わんないんだな!」
カヤは半泣きみたいな顔で笑って、帳場の端で手入れをやり直し始めた。ミレイユが麦湯を二つ運んで、隣にちょこんと座る。
「カヤおねえちゃん、その剣、リタさまの?」
「おう。世界一の剣だぞ、ちびすけ」
前掛けの看板娘と稽古着の看板娘で、うちの店先は近頃、ずいぶん景気がいい。
『いい店になったじゃない』
リタが帳場の上で頬杖をついた。グレンが娘を眺めたまま『だろ』とだけ返した。
開店と同時に、今度はピナが刷りたての瓦版を振りながら入ってきた。
「載りましたよ、続報! 『勇者の剣の鑑定士、双剣の汚名も雪ぐ』! 一面二連続、編集長の機嫌が天井知らずです」
紙面には審問の顛末と、ザイロスの取り調べの進み具合。末尾には「王都で遺品に迷ったら場末の鑑定所へ」と、ご丁寧な一文まで付いていた。
「……おい。うちは口入れ屋じゃないんだが」
「宣伝です、宣伝。現に表、依頼人が二人並んでますよ」
本当に並んでいた。北門の件から数え始めた依頼台帳は、いつの間にか三冊目に入っている。「墓守」と呼ばれた場末の店の、それが今の景色だった。
約束の朝の手合わせは、手合わせというより一方的な稽古だった。
「遅い。もう一本」
「……っ、はい」
夜明けの闘技場で、打ち込んでは転がされ、素振りの癖を三つ直され、昼前には腕が上がらなくなった。それでも剣聖は、俺の剣を「直す」ことしかしなかった。取り上げようとは、しなかった。
「借り物の重心で振るな。アルヴィスはお前より上背があった。お前には、お前の背丈の間合いがある」
一つ直されるたび、胸の中の型が、ほんの少しだけ「俺の側」へ寄る気がした。毎朝の素振り百本の意味が、ようやく体で分かり始めていた。
「アルヴィスの型は、あれの二十三年が作った剣だ。お前が形だけなぞるなら、ただの猿真似で終わる。――アルヴィスの型を、お前の背負い方で振れるようになれ。俺が見てやれるのは、そこまでだ」
「……なぜ、そこまでしてくれるんですか。俺を認めたわけじゃないんでしょう」
「認めてはおらん」
ヴァンは木剣を担いで、ふんと鼻を鳴らした。
「だが、あいつの剣が錆びていくのは我慢がならん。それだけだ」
帰り際、柵の内で見学していたフィーネとすれ違いざま、剣聖は一言だけ残していった。
「妹君も、あれから腕を上げたな」
フィーネは目を丸くして、それから深々と頭を下げた。五年前の彼女を知っている男の、それが精一杯の労いらしかった。
夜。店じまいのあとの、黒板会議。
書けることは増えた。敵は白い法衣――聖印庁の、どこか。手口は、あの「停止」と同系の力による「処分」。根拠は規定と、おそらく名簿。動機は、不明。
「問題は、これを全部知ってるのが、この店の中だけってことだ」
証拠は遺読。つまり、公にはできない。ピナの言う「動かぬ証拠」には、まだ何一つ届いていない。庁の門は剣聖でも覗けず、正面から調べる道はない。
「ヴァンさんには、どこまで話しますか」
「……型と残像は、もう視られてる。だが、霊のことと遺読のことは、まだだ。あの人は生きた認定英雄――庁に紋を預けてる側の人でもある。全部を預けるのは、こっちだけじゃなく、あの人の身にも危ない」
『いい判断だ』
グレンが頷いた。
『知ってることが命取りになる相手だからな、白いのは』
「……一つだけ、心当たりがあります」
フィーネが顔を上げた。
「兄は、書く人でした。安い油煙墨で、戦場でも毎晩、何かを書き付けていた。手紙、日誌、装備の帳面……何でも紙に残す人だったんです。もし兄が、生前に庁を疑っていたのなら」
「――どこかに、書き残している」
「それで、思い出したことが。兄の遺品を整理したとき……日誌の類だけが、無かったんです。手紙の下書き一枚まで取っておく人だったのに、肝心の日誌が、どの荷物にもない」
『そいつは臭うな』
グレンが唸った。書く男の荷物から、書いたものだけが消えている。自分で隠したか、誰かが持ち去ったか。どちらにしても、日誌は「ある」。少なくとも、あった。
「ピナ。商会が扱った勇者の遺品の行方、台帳から追えるか」
「三日ください。そういうのを掘るのは、得意です」
『この瓦版屋、ほんといい拾い物ね』と、リタが感心したように言った。もちろん、当人には聞こえていない。
勇者の手記。あるかどうかも分からない。だが遺言状の偽造を暴いたあの審問で、本物の几帳面な筆跡を検分した俺には、もう思えなかった。あの人が、自分の死の予感を前に、何も書かずにいられたとは。
「探しましょう。兄さんの、最後の言葉を」
フィーネは静かに言って、黒板の「聖印庁」の四文字をまっすぐに見た。
「……兄さんも、『処分』されたんですね。病気なんかじゃなく。誰にも視られないまま、規定で」
声は、震えていなかった。泣くのは、この五年でもう終わったのだ。この人の戦いは、たぶん、ここからが本番なのだ。
『なあ、坊主』
グレンが大盾の隣で、静かに言った。
『俺たちの分まで、頼むぜ。……ああいや、違うな。俺たちも一緒に行くんだった。こりゃ楽でいいや』
湿った空気が、少しだけ緩んだ。リタが『辛気くさいのは禁止。この店、狭いんだから』と付け足して、フィーネがやっと、小さく笑った。
場末の鑑定所。死んだ英雄が三人と、生きてる俺たちと。
世界で一番小さな、聖印庁への反乱軍だった。
――同じ夜。王都の北、聖印庁の最奥。
燭台の火だけが揺れる祈祷室で、銀髪の審問官が片膝をついていた。
「――以上が、観察の全てです」
報告を聞き終えても、枢機卿はしばらく黙っていた。温和な、いつもの微笑みのままで。
「秘蹟が、効かない」
「はい、猊下」
「……そうですか」
微笑みが、すっと消えた。
蝋燭の火が一つ、音もなく細くなる。
「では、観察は終わりです。――次の段階へ」




