英雄遺品鑑定士
その夜のことを、俺はたぶん、死ぬまで忘れない。
始まりは、いつも通りの稽古帰りだった。
「今日は三本に一本くらい、剣が『俺の側』にあった気がします」
「ヴァンさんは『まだ百年早い』だそうですけど」
夕暮れの通りを、フィーネと並んで歩く。買い出しの籠には、ミレイユの欲しがっていた蜂蜜と、カヤの好物の干し肉。店に戻れば視えない住人が三人と、騒がしい夕餉が待っている。
そういう、なんでもない夜だった。路地の角を、曲がるまでは。
――店の前に、白が立っていた。
純白の法衣。目深の頭巾。その手には、封蝋の付いた書状が一通。
「お帰りなさい、鑑定士殿」
シリル・アンヴェルグの声には、もう、迷いの温度がなかった。
「観察は、終わりました」
掲げられた書状の蝋印が、街灯の魔光に鈍く光る。
「執行状です。罪状ではありません――保全です。規定外戦力ロイド・ヴェスタの身柄を、庁の管理下に置く」
「……断れば?」
「今夜は、その言葉は聞けません」
俺は半歩下がりながら、店の窓を横目で見た。灯りの向こうで、ミレイユとカヤが夕餉の支度をしている。まずい。今夜は、全員いる。
『坊主、来るぞ! ありゃあ本気だ!』
グレンの声と同時に、俺は叫んでいた。
「フィーネさん、二人を裏から!」
彼女が店に飛び込み、足音が裏口へ遠ざかる。それを聞き届けた一瞬の隙に――白銀の鎖が二条、路地の両端を封じた。
「今夜は、逃がすなと言われておりますので」
シリルが、両の手袋を外した。
……両方、だ。あの夜は、片方だけだった。
左目が輝いた瞬間、世界の重さが変わった。
前とは桁が違う。空気が鉛になり、膝が石畳へ沈む。グレンの輪郭が千切れかけ、リタの翠が今にも消えそうに明滅した。
『ぐ、ぅ……!』
霊たちの声が、遠い。
裏口から回り込んだフィーネが戻り、俺の前に剣を構えてくれた。だが生身の剣士一人で凌げる相手じゃないことは、あの夜に思い知っている。細剣が鞘走り、鎖が鎌首をもたげた。
受けた。逸らした。三合目で剣ごと弾き飛ばされた。フィーネが割り込んで二合、庇い合って下がって、もう背中は店の壁だった。
「抵抗は、そこまでにしましょう」
温度のない声が、ゆっくり近づいてくる。
「あなたは規定の外だ。規定の外にある力は、いずれ必ず、誰かを損なう。……私はそれを、よく知っています」
膝が、落ちた。
燐光が軋む。守りの型も、速攻の型も、一の型も、鉛の空気の底に沈んでいく。指の一本まで重い。それでも、思うことは一つだけだった。
……渡せるか。
この店は、死んだ連中の最後の居場所で。あいつらの声を聞ける耳は、世界に、俺しかいないんだ。
その時だった。
店が、光った。
窓という窓から、青と琥珀と翠の光が噴き出した。帳場の大盾が。カヤの置いていった双剣が。奥の間の、勇者の剣が。店中の遺品という遺品が一斉に燐光を上げ、光は夜の路地に、三つの人影を結んだ。
『――ようやく出番かよ、俺の店の前でッ!!』
大盾を構えた巨漢が、聖鎖の正面に割って入った。鎖が盾に噛みつき――初めて、止まった。
「なっ……」
シリルの声が、裏返った。見えているのだ。俺以外の、全員に。
『どきなさい、白いの。その坊主はね――あたしたちの、鑑定士よ!』
緋色の髪の剣士が二刀で細剣を打ち払い、火花が夜に散る。フィーネは目を見開いて立ち尽くしていた。彼女の目にも、視えている。ずっと隣にいた、視えなかった住人たちが。
そして、最後に。
俺の胸の奥から、あの温かい重みが、するりと抜け出した。
青白い光が、人の形を結ぶ。金の髪。妹と同じ空色の瞳。五年間フィーネが毎日手入れをしてきた剣と、対の紋様の柄に手を掛けて――勇者アルヴィス・ブレイナーが、俺の前に立った。
『……ロイド』
初めて聞く、はっきりとした声だった。
『借りるぞ。俺の、相棒』
勇者が、俺に重なった。
重さが、消える。読み筋が流れ込む。半歩、斜め前。振り下ろされる細剣の内側、たった一つの隙間へ――
一の太刀。
銀の閃きが、シリルの頭巾を真っ二つに割った。
布が、夜風にほどけて落ちる。
現れたのは、月光のような銀髪と、左目に刻まれた聖印。俺には見覚えのある顔だ。だが――
「……あ」
フィーネの声が、掠れた。
「あなた……。……兄さんの、隊にいた人」
シリルは、答えなかった。
答えられなかったのだ。審問官は細剣を下げたまま、目の前に立つ青白い光を――完全な姿の勇者を、凍りついたように見上げていた。
「たい、ちょう……」
唇から、それだけが落ちた。書類の声でも審問官の声でもない、迷子の子供の声だった。
アルヴィスは何も言わず、ただまっすぐに、かつての従士を見返していた。
シリルは一歩、二歩と後ずさり、割れた頭巾を拾いもせず――夜の闇に、消えた。
東の空が白み始めた頃、三つの光は、燃え尽きようとしていた。
『……未練の前借りってのは、あとがきついねえ』
グレンが大盾ごと、薄くなっていく。
「消えるんですか」
『消えやしないわよ、ばか』
リタの翠が、蝋燭みたいに揺れた。
『ちょっと寝るだけ。当分は声も出せないけど……ちゃんと、いるから。カヤに、そう言っといて』
『ミレイユを頼むぜ、坊主。……ああ、久しぶりに動いたら腹が減った』
最後まで食い意地の張った霊は、笑いながら朝の光に薄れていった。
そして。
青白い光が、フィーネの前に立った。
「…………兄さん」
五年ぶんの、声だった。
アルヴィスは、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。妹の頭に触れる寸前で止まった手と、昔と同じ、少し困ったような笑い方だけを残して――勇者は、朝に溶けた。
フィーネは、泣かなかった。泣く代わりに剣を胸に抱いて、光のあった場所へ、深く、深く頭を下げた。
「……『おかえりなさい』で、いいんですよね。ずっと、いてくれたんですもんね」
静まり返った店の前で、俺は割れた白い頭巾を拾い上げた。
聖印庁は、もう止まらないだろう。次に来るのは観察でも回収でもない、何かだ。こっちの戦力は、当分眠る霊が三人と、生身が二人。相手は、英雄を作って消してきた白い壁。
それでも、不思議と怖くはなかった。
死んだ英雄の最後の声を聞いて、遺された者に届ける。それが俺の仕事だ。世界でただ一人の――英雄遺品鑑定士の。
「さて、と」
俺は店の扉を開けた。
「続きは、朝飯を食ってからだ」
――同じ朝。聖印庁の最奥。
祈祷室の卓上で、一冊の古い名簿が開かれた。
磨き込まれた手が、白い頁に新しい一行を書き加える。インクは、乾いた血のような赤だった。
【監視対象、追補。紋の高適合者につき、観察を開始する】
【フィーネ・ブレイナー】
第一部「勇者の剣」完結です。ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
第二部「英雄たちの墓標」は、8月1日ごろから連載開始予定です。
物語はここから、消された英雄たちの足跡を巡って、王都の外へ広がっていきます。
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