停止秘蹟
夜の路地に、白い頭巾と俺と、街灯の魔光だけがあった。
「ご用件は」
「先日の検分の続き――と申し上げたいところですが、正直にいきましょう。あなたの周りで視えるもの。燐光と、残像と、あの不可解な力について、庁でゆっくりお話を伺いたいのです」
「容疑ですか」
「いいえ」
頭巾が、心外そうに小さく揺れた。
「保護です。規定の外にある力は、放置すればご本人のためになりませんので」
保護。……「処分」と同じ棚に並んでいそうな言葉だった。
「ご同行は、お断りします」
俺は一歩下がって、店の戸口を背にした。
「令状は? 罪状は? 聖印庁が市井の鑑定士を夜中に連れ出せる権限なんて、俺は寡聞にして知りませんが」
「権限は、あります。庁務規程、査問局条項。……とはいえ、あなたにお見せする義務はありません。夜分に、穏便に、と提案しているのですが」
白い頭巾が、残念そうに小さく揺れた。
それから細い指が、黒手袋を指先から一本ずつ、外していった。
「では――規定により」
頭巾の陰で、左の目が輝いた。
世界が、軋んだ。
大気が一瞬で真冬になる。いや、違う。寒いんじゃない。押さえつけられているんだ。空気ごと、光ごと、巨大な見えない掌で。
『ぐ……っ! おい、なんだこりゃあ……!』
背後の店から飛び出しかけたグレンの姿が、砂嵐のように乱れた。リタの翠の燐光が、悲鳴じみた明滅を刻む。
『な……にこれ、重……っ』
俺の胸の奥で、三つの型が軋みを上げる。街灯の魔光まで薄暗く沈んで、この場の燐光という燐光が、圧し潰されていく。
停止。
ああ、これが。英雄たちを「処分」してきた庁の切り札。控室でリタから熱を抜いた、あれと同じ系統の力だ。
俺は――
俺は、動けた。
重い。骨まで軋む。だが、止まらない。胸の型は歪みながらも消えず、足は、前に出る。
どうして俺だけが、と考えかけて、脳裏を掠めたのは祖父さんの声だった。遺品には、素手で触れるな。……祖父さん。あんたは何を知ってて、俺に何を黙ってた?
頭巾の奥で、初めて、シリル・アンヴェルグの声が揺れた。
「……なぜ、動ける」
しゃらり、と鎖の鳴る音がした。
「紋の無い型? いや……違う。あなたの力は――紋として、視えない。……なんなんだ、あなたは」
「さあ。それは俺が、誰かに訊きたいくらいです」
軽口を叩く背中は、汗で濡れていた。答えを知らないのは、本当だったからだ。
聖鎖が、来た。
白銀の鎖が蛇のように石畳を這い、足首を狙う。考えるより先に、胸の琥珀が重くなった。守りの型。半歩引いて、立て看板を蹴り倒して鎖の道に割り込ませ、先端を巻き取らせる。
「ロイドさん!」
店の戸が跳ね開いて、フィーネが抜き身のまま飛び出してきた。何も言わず、俺の背中に付く。
「体は。動けますか」
「はい。……重いのは、空気だけです」
なるほど、と頭の隅で整理する。あの停止は、燐光を潰す技だ。紋も燐光も持たない生身の剣士には、掛からない。だから庁は英雄だけを、ああも静かに殺せるのか。
二対一。それでも路地の空気は、一寸も軽くならなかった。
シリルは、強い。
細剣は、最短距離だけを通ってくる。無駄な振りが一つもない。フィーネの剣が三合で押し込まれ、四合目で大きく弾かれた。
『右っ! 沈んで、二歩目で入る!』
リタの声が飛ぶ。
割り込む。胸の翠に重心を預ける。リタの速さを借りた二連撃――一撃目は払われ、二撃目が、初めて細剣を横へ弾いた。
『いいわよ坊主、今の!』
だが、返す刃が俺の袖を裂いていった。浅い。浅いが、こっちは継承の型を二つ束ねての浅手で、向こうはまだ、手袋を片方外しただけだ。
「フィーネさん、俺の左へ。あの鎖は右手側からしか来ない」
「見えています。それと――鎖は二回に一回、剣より半拍遅れます」
剣士の目が、審問官の癖を読み始めていた。頼もしい。頼もしいが、削られていくのはこっちの膝だけだった。
鎖が横薙ぎに来る。フィーネが俺の襟を引いて転がり、石畳に火花が散った。受けて、逸らして、また受けて。攻め手は、もうどこにもない。
膝が、つきかけた。
その俺の背後で、琥珀と翠の残像が同時に揺れて――俺を庇う形に、立った。頭巾の奥の視線が、それを長いこと、じっと見た。
そのとき――シリルの聖鎖が、ぴたりと止まった。
「……報告事項が、増えました」
審問官は鎖をゆっくり手繰り、しゃらり、と袖の内に収めた。
「今日のところは、これで」
「……見逃してくれる理由を、訊いても?」
「私の任務は観察と、可能であれば回収です。殲滅ではありません。それに――規定の外にある力を、規定の中の判断で扱うわけには参りませんので」
温度のない声のまま、白い背中が路地の闇へ溶けていく。
そして、その足が、一度だけ止まった。
「一つだけ、伺いたい」
頭巾の奥から響いた声は、それまでの慇懃な温度と、明らかに違っていた。
「死者を暴いて。死者の技を纏って。……あなたはそれで、彼らを救えるとでも?」
わずかな、熱。書類ではない、人間の声だった。
「救えるかどうかは、知りません」
俺は、正直に答えた。
「ただ、聞くことはできる。誰にも聞かれないまま死んでいった連中の、最後の言葉を。……あんたたちが抜き取っていく、あの数日の分まで」
返事は、長いことなかった。
「――やはりあなたは、危険だ」
それだけを残して、白は夜に消えた。
路地が、ゆっくりと温度を取り戻していく。
『……ありゃあ、化物だぜ』
グレンの姿が、乱れた砂嵐から元の輪郭へ戻った。リタが舌打ちをする。
『あの鎖、生き物みたいに曲がったわよ。あたしの現役時代でも、あれと立ち合うのは御免だわ。……でもあんた、よく立ってたわね。ちょっとだけ、見直してる』
『それとな、坊主』
グレンが低く付け足した。
『最後のあれは、庁の務めの声じゃなかったぜ。……ありゃあ、あんた個人に何か言いたい奴の声だ』
「フィーネさん。……手」
「え?」
「震えてる」
「……ロイドさんも、です」
顔を見合わせて、どちらからともなく、短く笑った。笑うしか、なかった。
張り詰めていたものが切れて、膝が今さら笑い出す。フィーネの肩を借りながら、俺は白の消えた闇をずっと見ていた。
観察、と言ったな。
……観察が終わった日に、あの温度のない声は、何をしに来る?




