視えない数日
約束の朝。開店前の鑑定所に、俺は生者と死者を集めた。
フィーネ、ピナ。帳場の上にリタ、大盾の隣にグレン。
そして、全部話した。右の一振りに残っていた、リタ・アッシュフォードの最期を。白い法衣。目深の頭巾。上背のある男の、低い声。片手を挙げただけで体から熱が抜け落ちたこと。そして、あの宣告――「認定英雄リタ・アッシュフォード。規定により、処分を執行する」。
聞き終えたリタは、長いこと黙っていた。
『……思い出せると、思ったのよね』
翠の霊は、自分のこめかみを、とん、と叩いた。
『あんたの話を聞けば、ああそうだったって膝を打つと思った。でも駄目。何にも引っかからない。試合に勝った記憶の次が、もう、この店なのよ』
「検証させてください。試合の前の日、何をしていたか言えますか」
『…………霞んでる』
「三日前は」
『霞んでる。……十日前なら、朝稽古と、カヤに作らせた不味い粥。そのへんから手前が、順に薄くなってく』
それから翠の霊は、ふと自分の掌を見た。
『……ねえ。あたし、最後にあの子と何を話したのかも、思い出せないのよ。五年もいっしょにいたのに、最後の言葉だけが、どこを探しても、ない』
「……左の剣に、一つ残ってましたよ。最後の言葉じゃないが。稽古場で転んだあの子が、泣かずに立ち上がるのを見てた夕方だ。あんたはあの時、眩しくて仕方なかった」
『…………そ。それ、あたしの一等いい記憶だわ。持ってかれなくて、よかった』
グレンと同じだ。死の間際、前後数日ぶんの記憶が、丸ごと抜き取られている。霊に訊いても、答えは出ない。作りが、そうなっている。
リタの声が、一段低くなった。
『ふざけんじゃないわよ。……殺されたのは、まあいい。いつかは死ぬ商売だった。けど、あたしの頭ん中から、あたしの最期を勝手に持ってくな。返しなさいよ。あたしの五日間』
『吠えんな、双剣の』
グレンが静かに言った。
『坊主はそれを、外から視て、届けてくれた側だ。……怒鳴る先は、別にいる』
リタは口をつぐみ、それから小さく『……悪かったわね、坊主』と言った。
黒板に、三つの死を並べて書いた。
勇者アルヴィス、寝室で病死、二十三。盾のグレン、路地で凍死、四十五。双剣のリタ、控室で心不全、二十六。
場所も季節も死因も違う。共通項は四つ。遺体から消えた英雄紋。体の芯から熱を抜かれる最期。死の周辺に掛かる情報の蓋。そして――「処分」の語。
「それと、もう一つ。リタさんの控室の廊下には、常に十人の目があった。なのに誰も不審者を見ていない。……いや、違うな。見てはいたんだ」
祝別の司祭様なら、いらっしゃいましたよ。いつものことです。
あの係員の、何の悪気もない顔を思い出す。
「千人が見ていた。ただ――白い法衣は、風景だったんだ」
誰の記憶にも、不審者としては残らない。姿を隠す必要すらない。教会の白は、この王都では雨上がりの水たまりと同じ、いつもの景色で。
景色を、人は視ない。
「隠れてないのに、視えない。それがあの白の、一番怖いところです」
フィーネが黒板を見つめたまま、静かに言った。五年間、誰にも視えない場所で兄を失った人の声だった。
『……あたしも、視てなかったクチよ』
リタがぽつりと言った。
『祝別なんて何十回も受けたけど、頭巾の中の顔なんて一度も気にしなかった。あの日まで、あたしにとってもあれは、風景だったの』
「規定により、とあの男は言った。つまり庁のどこかに、英雄を処分するための規定がある。基準があって、手続きがあって――たぶん、名簿がある。誰が載るのか、何をすれば載るのかは、まだ何も分からないが」
『載る条件、ねえ』
グレンが低く唸った。
『……なあ坊主。俺ぁいったい、何をしたんだろうな』
誰も、答えられなかった。
「……で、私はこれを、書けないわけですね」
ピナが速記帳を膝に置いた。彼女は闘技場の朝、青白い残像をその目で視ている。書こうと思えば、王都がひっくり返る記事が書ける。
「書けないんじゃない。まだ書かない、だ。今出せば、記事は握り潰されて、あんたの社ごと潰される。相手は瓦版の胴元より、ずっと上にいる」
「分かってますよ、それくらい」
彼女は唸って、丸眼鏡を押し上げて、それから顔を上げた。
「条件が三つあります。一つ、鑑定所の調べ物は今後、私を通すこと。二つ、書ける日が来たら、独占は私のもの。三つ――その日まで私は、この店の情報班です。記事にするかどうかは、お互い相談の上で」
「……高くつくな」
「ええ。前に言いましたよね。私、貸しは高くつくんです」
差し出された手を、握った。インク染みの指なし手袋は、硬くて、温かかった。
午後、店の戸口が影で暗くなった。黒鎧のヴァンだった。
「リタの件、俺のほうでも庁の知り合いに探りを入れた。……妙だぞ、鑑定士。静かすぎる」
「静か、ですか」
「闘技場の醜聞なんてのはな、普段なら聖印庁が嬉々として説教の種にする。それが今回に限って、庁の周りだけ水を打ったように静かだ。誰も語らん。触れるなというお達しが、上のどこかから出ているとしか思えん」
「猊下のお達し、かもしれませんね」
「さあな。ただ――俺の顔をもってしても、庁の門の中は覗けなかった。覚えておけ。あの白い壁は、剣聖の名でも斬れん」
生きた英雄の最高峰が、そう言って苦い顔をした。それがどれほどの高さの壁なのか、嫌でも分かる話だった。
帰り際、ヴァンは思い出したように振り返った。
「素振りは続けているか」
「……毎朝百本。まだ、俺の剣にはなりませんが」
「なるさ、そのうちな。五日後の朝、闘技場へ来い。手合わせの続きをしてやる」
それだけ言って、黒鎧は路地の向こうへ消えた。帳場の上でリタが口笛を吹く。
『剣聖の稽古って、あんた。金貨を積んでも買えないわよ、それ』
夜。店じまいの戸締りに出た路地で、足が止まった。
街灯の魔光の下に、白が立っていた。
純白の法衣。目深に被った頭巾。顔は影の中で見えない。だが、その慇懃で温度のない声には、はっきりと聞き覚えがあった。
背中の店には、まだ灯りがある。フィーネが帳簿を締め、リタとグレンが茶々を入れている、いつもの灯りだ。
――ここから先へは、通せない。
「――夜分に失礼します、鑑定士殿。庁まで、ご同行願えますか」




