温和な顔
審問を明日に控えた夜。眠れずに帳場へ降りると、裏庭の戸が薄く開いていた。
月明かりの下に、フィーネが立っていた。
兄の形見の剣を提げて、ただ、立っていた。素振りをするでもなく、切っ先は地に向いたまま。喪の黒いリボンが、夜風に揺れている。
「……眠れませんか」
「はい。目を閉じると、考えてしまうんです」
白い法衣。書類を読み上げるような宣告。兄さんは最後に、何を聞かされたんだろう、と。
声は落ち着いていた。落ち着きすぎているのが、逆に痛かった。
「五年間、ずっと『病死』と戦ってきました。誰かに殺されたなんて、そんな考えは思い上がりだと、自分に言い聞かせながら。……でも、本当は分かっていた気がします。兄さんは、あんな死に方をする人じゃない」
フィーネは剣を持ち上げ、月に刃を透かした。青白い刃文が、静かに光る。
「不思議です。相手があんなに大きなものだと分かったのに――昨日より、怖くないんです」
「……そうですか」
「はい。だって私、もう独りで戦わなくていいので」
そう言って彼女は、少しだけ笑った。この店に来てから、一番きれいな笑い方だった。
「明日、勝ちましょう。まずはリタさんの汚名からです。一枚ずつ、でしたよね」
ああ、と俺は頷いた。一枚ずつ、剥がしていく。あの白くて分厚い壁を。
商務院大広間。帰属審問の裁定卓には商務院の老判事と、ギルド立会人のガルドさんが着いた。傍聴席にはヴァン、速記帳を構えたピナ、そして拳を握りしめたカヤ。
そして壇の脇、一段高い後見席に、その人はいた。
綺麗に撫でつけた白髪。金糸の縁取りも眩しい純白の法衣。聖印庁枢機卿は、開廷の口上でただ一言「主の御心のままに、公正な裁きを」とだけ述べ、あとは柔和に微笑んだまま、黙って座っていた。
孫の運動会でも眺めるような、温和な顔で。
俺は掌の汗を握り込んだ。俺たちが昨夜辿り着いた答えの、たぶんずっと上流にいる人が、目の前で微笑んでいる。
「では、双剣および戦績の帰属につき、審問を開始する」
ザイロスの主張は三本柱だった。興行契約に基づく管理権。カヤの債務。そして薬物中毒死による戦績無効。
「そもそもですな、判事どの! 契約に基づく当然の権利を、この若造が横から掻き回しておるのです。うちがどれだけあの女に投資したか――」
興行主は一晩で威勢を取り戻したらしく、指輪だらけの手を振り回して喚き立てた。傍聴席でカヤの拳が白くなるのを、隣のフィーネの手がそっと押さえる。
『言わせとけよ、坊主』
俺の傍らで、グレンが退屈そうに腕を組んだ。
『堀はもう、埋めてあんだろ』
ええ。だから今回も、やることは同じだ。
俺は物証で、順番に殴った。
一つ。検死医の再鑑定書。毒物・薬物の痕跡は一切なし。所見は原因不明の急性心停止のみ。双剣の状態鑑定書も添える。刃筋にも手入れにも、薬に蝕まれた人間の乱れはない。
二つ。筆跡照合の正式な結果。商務院に登録された入門誓約書――十二歳のカヤの筆跡と、証文の署名は「別人の手による」。商務院お抱えの筆跡師の署名入りだ。
「い、いんちきだ! 買収したに決まって――」
「三つ目の前に、一つ伺います」
俺は帳面を開かず、興行主の目だけを見た。
「リタさんの死因が『薬物』だと、あなたに何か、いいことでもあるんですか。たとえば引退興行の、賭けの払い戻しとか」
「は、払い戻しを踏み倒すためだなどと、誰も言っておらんだろうが!!」
大広間が、静まり返った。
踏み倒す。その言葉は、俺はまだ一度も口にしていなかった。
老判事の目が細くなり、書記のペンが走る。ピナが速記帳の上で、小さく拳を固めるのが見えた。ザイロスの顔から、赤黒い色がゆっくりと引いていった。
「……最後に、こちらから証人を。故人の唯一の弟子です」
カヤが証言台に立った。膝が震えているのが、後ろからでも分かった。
「姐さんは、八百長を三回、断りました。日付も、持ちかけてきた相手も、全部言えます。それで……断って帰ってくるたび、あたしに言ったんです」
少女は一度だけ息を吸い、まっすぐに前を見た。
「『剣を汚したら、あたしはあんたに、何も渡せなくなる』って。姐さんの剣は汚れてません。あたしが、世界で一番よく知ってます」
沈黙の中で、傍聴席の椅子が、ぎ、と鳴った。
ヴァン・シュトラールが、立ち上がっていた。
剣聖は何も言わなかった。ただ黒鎧の生きた英雄が、証言台の少女に向かって、深く一度、頷いた。
「傍聴人。発言であれば、手続きを」
「――いや」
ヴァンは座り直しながら、低く答えた。
「座ったまま聞ける証言では、なかった。それだけだ」
それで、場の空気が決まった。
裁定は昼を待たずに下りた。
証文は偽造につき無効。差押えの申立ては棄却。薬物中毒死の風説は再鑑定により公式に否定。双剣および戦績は、リタ・アッシュフォードの名誉と共に、唯一の弟子カヤへ――
読み上げが終わるのと、商務院の告発を受けた衛兵がザイロスの両脇を固めるのが、ほとんど同時だった。文書偽造、ならびに賭博規約違反の疑い。引き立てられていく興行主は最後まで何か喚いていたが、もう誰も聞いていなかった。傍聴席でピナが速記帳をぱたんと閉じ、口の形だけで「一面、いただきました」と言った。
千人が見ていて、誰も視ていなかった死の隣で。こっちは満場が見て、聞いて、記録した。
「カヤ」
「……っ、姐さん……あね、さん……!」
少女は証言台にしがみついて、今度こそ、声を上げて泣いた。フィーネがそっと歩み寄り、その背中に手を置いた。
閉廷後、大広間の出口で、人波がふっと割れた。
白い法衣の一団が通る。その先頭の老人が、俺の前で静かに足を止めた。
「良い仕事をなさる」
枢機卿は、温和に微笑んでいた。
「死者に尽くす方は、庁としても好ましい。主の御許で、双剣の勇士も安らかでありましょう」
「……恐縮です、猊下」
俺は頭を下げた。下げながら、背筋が冷たかった。
この人は、審問の間じゅう、ザイロスを一度も見なかった。見ていたのは最初から最後まで――俺だけだ。
一団が、また歩き出す。すれ違いざま、聞こえるか聞こえないかの声量で、耳元に言葉が落ちた。
「――次も、見せていただきますよ」
振り返った時には、白い背中はもう、人波の向こうだった。




