処分
翌朝、夜明け前。俺は店の裏庭で、剣を百本振った。
ヴァンに出された宿題だ。借り物を、俺の背骨で背負え。何をどうすればいいのかは、まだ分からない。分からないなりに、型に頼らない素振り百本から始めることにした。俺の腕だけで振る剣は、情けないほど遅く、重い。
『はっ。ひでえ太刀筋だ』
グレンが縁台で笑った。
『だが悪くねえ朝だぜ、坊主。……百一本目からが、お前の剣だ』
朝餉のあと、扉に「本日休業」の札を掛け、俺は双剣と向き合った。
「どっちから視るんですか」
「まず、こっちだ」
俺が手袋を外して指したのは、左の一振り――燐光を帯びていないほうだった。フィーネが意外そうに眉を上げる。
「最期の記憶ってのはな、死の瞬間、一番近くにあった愛用品にだけ焼き付く。ゆうべ燐光を帯びてたのは右の一振りだけだった。つまり、最期が焼き付いてるのはあっちだ。……左に残ってるのは、生前の記憶。感情が強く振れた、どこかの数十秒だ」
「なら、なぜ左から」
「知りたいからだ。リタ・アッシュフォードがどう死んだかの前に――どう生きてたかを」
一礼して、左の柄を素手で握る。
燐光。浮遊感。そして――
――埃っぽい稽古場の匂い。
夕陽の差す板の間で、木剣を構えた小さな影が、何度も打ち込んでくる。カヤだ。今より二つ三つ幼い。頬に泥、目に涙、それでも打ち込みをやめない。
『……ほら、脇が甘い。もう一本』
この身体の喉から出る声は、呆れるほど優しくて、呆れるほど楽しそうだった。
何本目かで、カヤが転んだ。泣くかと思えば、少女は歯を食いしばって立ち上がる。その瞬間の、胸の内側で弾けた感情を、俺は追体験する。
誇らしさ、だった。眩しくて仕方がない、という誇らしさだった。
『いいねえ。……あんたが独り立ちするまでの繋ぎだ、あたしの剣はさ。汚さず磨いて、いつか胸を張って、あんたに継がせる』
視界が、ゆっくりと砕けた。
「……ロイドさん? 大丈夫ですか、鼻血」
「ん、ああ。……いや、いい記憶だった。それだけだ」
手拭いで顔を押さえながら、俺は少し笑ってしまった。何百回も聞かされた、とカヤは言っていた。当たり前だ。あれはリタ・アッシュフォードの、五年間の口癖で――たぶん、生き甲斐そのものだった。
だから、午後に視るものが、余計に重くなる。
夕暮れ。反動の眩暈が抜けるのを待って、俺は右の一振りの前に立った。
柄の燐光は、昨夜より濃い。フィーネが手拭いと水差しを用意し、椅子を俺の後ろに置いた。グレンが大盾の隣で、黙って腕を組んだ。
「――聞かせてもらう」
素手で、柄を握った。
――歓声が、遠い。
石壁の控室。汗はまだ引いていない。腕は鉛のようで、心臓はまだ戦いの拍を刻んでいて、それでも気分は、天井を突き抜けるほど高かった。
勝った。最後の試合に、生涯で一番の剣で。
卓の上の水差しへ手を伸ばしかけた、その時。扉が、外へ開いた。
白。
純白の法衣が、扉枠いっぱいに立っていた。頭巾は目深で、顔は影の中。上背のある男だ。声を掛けられる前から、廊下の物音が、妙に遠い。
『……なんだ、祝別かい? 悪いけど今日はもう店じまいだ。サインなら明日に――』
この身体の喉が、軽口を叩く。恐れは、欠片もなかった。祝別の司祭は、試合のあとにやってきて、ぶつぶつ祈って帰るだけの、いつもの客だ。
法衣の男が、片手を挙げた。
その瞬間。
体の芯から、熱が抜けた。
栓を抜かれたように。ごっそりと。心臓の拍が、一拍、二拍と間延びしていく。膝が落ちる。石の床が近い。指の先が痺れて、声が、出ない。
薄れる意識の膜の向こうで、頭巾の奥から、低い男の声が響いた。感情のない、書類でも読み上げるような抑揚だった。
『――認定英雄、リタ・アッシュフォード。規定により、処分を執行する』
しょぶん。
処分って、なんだ。あたしが、なにをした。
遠のく視界の隅に、壁に立てかけた双剣が映る。ああ、駄目だ、こんなところで。まだ、渡してない。まだあの子に、胸を張って――
『……カヤ。剣、を――』
白い闇が、全部を飲み込んだ。
「――ッ、は……!!」
気がつくと、床に膝をついていた。フィーネの腕が俺を支え、手拭いが差し出される。鼻血。動悸。指先の痺れ。そして、抜き取られた熱の記憶が、真夏だというのに全身を凍えさせていた。
「視えたんですね」
「……ああ」
俺は視えたものを、全部話した。白い法衣。目深の頭巾。上背のある男の、低い声。片手を挙げただけで熱が抜けたこと。そして、あの一言。
「『認定英雄リタ・アッシュフォード。規定により――処分を、執行する』」
店の中が、静まり返った。
最初に沈黙を破ったのは、グレンだった。
『……おい。おい、待て、坊主。処分だと? 規定だと? それじゃまるで』
「ええ。まるで、書類仕事だ」
殺しじゃない。粛清ですらない。あれは――手続きだった。認定英雄という書類の、抹消の手続き。
『ふざけるな……!! 紋を寄越したのは向こうだぞ! 授けるだけ授けて、崇めさせるだけ崇めさせて、それで用が済んだら「処分」か!? 俺たちが、何をしたってんだ!!』
琥珀色の霊体が、吠えた。俺は答えられなかった。分からないからだ。何の「規定」で、何の基準で、英雄たちが消されているのか。まだ、何も。
「……グレンさん。俺が視たあんたの最期には、宣告の声がなかった。それにあんたは、白いのを見ても驚かなかった。抵抗もしなかった」
『…………そうかい』
怒りの底から、グレンは掠れた声で答えた。
『驚かなかった、か。……なら、生前の俺には、白いのが来る理由に何か心当たりがあったんだろうよ。それが何だったのかは――この頭からは、きれいに抜け落ちてるがな』
死の間際の数日ごと、抜き取られた記憶。その霞の中に、「心当たり」も沈んでいる。霊に訊いても、答えは出ない。
ただ、一つだけ確定したことがある。
勇者の最期に映った白い袖。グレンの路地の白い人影。そして今日の、白い法衣。
「――聖印庁だ。英雄を殺してるのは、英雄を作ってる連中だ」
口に出すと、その言葉は自分で思うより遥かに重く、店の床に落ちた。
ずっと黙っていたフィーネが、絞り出すように言った。
「……兄さんも、聞かされたんでしょうか。あの、書類みたいな声を」
答えられなかった。代わりに彼女は顔を上げ、空色の目に静かな火を灯した。
「審問、必ず勝ちましょう。それで一枚ずつ、剥がしていくんです。……あの白くて、分厚い壁を」
その重さに追い打ちを掛けるように、翌朝、ギルドの使者が審問の通知を持ってきた。
双剣および戦績の帰属を巡る審問は五日後、商務院大広間にて。ここまではいい。望んだ通りの舞台だ。問題は、末尾の一行だった。
――なお本審問は、聖印庁より高位聖職者猊下の臨席を賜り、後見のもとで執り行われる。
「……庁の、後見?」
帰属審問は、ギルドと商務院の合同仲裁だ。庁の出る幕なんて、どこにもない。ないはずなのに、向こうから、来る。
俺たちが辿り着いた答えのすぐ隣に、当の白い法衣が、音もなく席を用意していた。




