千人の目撃者
果たし合いの熱が引く間もなく、その足で俺たちは闘技場の奥へ向かった。審査会は昼。それまでの数時間が、控室を検分できる唯一の機会だった。
「ピナ。今朝視たものは、まだ書くな。代わりに、この件が終わったら全部話す」
「……前と同じ取引ですね。いいでしょう。私、貸しは高くつきますからね」
リタ・アッシュフォードが死んだ控室は、廊下の突き当たりにあった。
窓は、ない。壁は石積み。出入口は廊下に面した扉一枚きり。その廊下には試合の夜、係員、興行の使い走り、祝いの酒を運ぶ給仕――関係者が常時十人からいた。差し入れの食事はカヤも同じものを口にして、何ともなかった。
「完全な密室、というわけでもない。人の目という鍵が、十重に掛かった部屋だ」
毒を盛る隙はない。刃物なら傷が残る。誰かが入れば、廊下の十人が見ている。なのにリタは、この部屋で一人、心の臓を止めた。
『……なあ坊主。俺の路地と、勇者の坊やの寝室と、この控室。全部おんなじ匂いがするぜ』
グレンの声は低かった。ああ。密室なのは、部屋じゃない。死に方そのものだ。場所も季節も違う三つの死が、同じ手の形をしている。
廊下にいた係員たちへの聞き込みは、ヴァンの名前を出すと面白いように口が軽くなった。だが収穫は、妙な形でやってきた。
「試合の夜、控室の廊下で、誰か見慣れない人間を見ませんでしたか」
「いやあ、いつもの顔ぶれだけでしたよ。ああ、あとは司祭様くらいで」
「……司祭様?」
「聖印庁の司祭様ですよ。大きな試合のあとは、勝者に祝別を授けにいらっしゃるんです。ほら、英雄様ってのは庁の紋持ちでしょう。……何かおかしいですか? いつものことですよ」
いつものこと。
係員は本当に、何もおかしいと思っていなかった。白い法衣が控室の扉をくぐるのは、この闘技場では雨上がりの水たまりと同じ、風景の一部なのだ。
「その司祭の顔は」
「頭巾を目深に被ってらしたから……さあ。でも祝別の司祭様は、いつもそうですよ」
「では、名前は。庁に照会すれば」
「よしてくださいよ」係員は本気で嫌そうな顔をした。「庁のことを、こっちから聞くもんじゃありません」
司祭が控室に入った時刻を、誰も覚えていなかった。出た時刻も、誰も。覚える理由が、誰にもなかったからだ。
千人が見ていた。誰も、視ていなかった。
昼。闘技場の会議室で開かれた興行審査会は、開始五分で怒鳴り声の応酬になった。
「双剣と戦績の処遇は興行契約に基づき当闘技場が――」
「その前に申立てを。故人の遺品の帰属に係争がある場合、裁定はギルドと王都商務院の合同帰属審問に移ります。興行のことは興行の場で。ですが遺品のことは、遺品の場でやっていただく」
俺が差し出した申立書に、ザイロス・グーデの顔が赤黒く膨れた。
樽のような胴に、指輪だらけの太い指。よく撚った口髭の下で、追従笑いと恫喝を瞬時に切り替える男だった。
「え、遺品だと? 笑わせるな、あの双剣はうちの備品も同然……だ、だいたい、この小娘には債務がある!」
放り出された羊皮紙を、俺は片眼鏡越しに検めた。
弟子入り時の借財、金貨十二枚。年季奉公による返済を定める――署名、カヤ。
「あたし、こんなの書いてない!」
「書いた書いてないは水掛け論だがね、小娘。署名は署名だ」
「ええ、水掛け論はやめましょう。……ときにザイロスさん。この署名、彼女が十二歳の時のものですよね」
俺は証文を光にかざした。
「十二の子供が書いたにしては、ずいぶん堂々とした、大人びた筆跡だ。彼女の当時の筆跡と突き合わせる必要がありますね。闘技場の入門誓約書は、商務院の登録文書のはずですから」
ザイロスの口髭が、ぴくりと跳ねた。
商務院の、登録文書。つまり俺が照合を正式に申し立てた瞬間、この証文は役所の検分台に載る。本物なら困らない。偽物なら――載った瞬間、恐喝の道具から犯罪の物証に変わる。
「……い、いいだろう! なら帰属審問とやらで白黒つけようじゃないか。それまで処遇は凍結だ。文句あるまい!」
自分から言い出した形で、引っ込みをつけたつもりらしい。俺が「では規定により、係争中の遺品はギルドの監督下で保管します。鑑定継続中につき、保管の実務はうちの店で」と付け加えると口髭がもう一度跳ねたが、そこへ、会議室の隅から低い声が落ちた。
「――審問とやらには、俺も傍聴に行くぞ、興行主どの」
壁際に腕を組んで立っていたヴァンの駄目押しで、部屋の温度が三度は下がった。生きた英雄に睨まれた興行主は、残っていた減らず口を、全部飲み込んだ。
処遇は帰属審問まで凍結。双剣はギルド監督下の保管扱いで、実務は鑑定継続中のヴェスタ鑑定所。ザイロスは食い下がりかけたが、壁際の黒鎧をちらりと見て、口を閉じた。
つまり双剣は、俺の店に来る。
「……姐さんの剣、あんたの店にあるほうが、姐さんもきっと喜ぶ」
帰り際、カヤが小さくそう言った。闘技場の廊下を歩く彼女の背中は、五年間ここで生きてきたはずなのに、ひどく居心地が悪そうだった。
夕暮れ、店に届いた双剣に、俺はまず、いつも通りの外側の鑑定を施した。
刃こぼれは一つ残らず丁寧に研ぎ直され、刃筋には一分の乱れもない。柄の革は巻き替えたばかりで、締め方には几帳面な癖がある。鍔の裏まで磨き込まれ、油は薄く、均一。……薬に蝕まれた人間の手入れじゃない。震える指に、この仕事はできない。
「フィーネさん。剣士の目で、この剣をどう見る」
「――愛されています。最後の日まで。薬で剣を汚すような人の得物では、ありません」
物証は、また一つ。あとは動機の線だ。
夜。鑑定所の帳場に、ピナが薄い綴りを叩きつけた。
「出ました。ザイロスの動機、算術で説明できます」
持ち込んできたのは、払い戻しを踏み倒された賭け客と、闘技場の帳場書記だという。義憤半分、私怨半分。裏帳簿の写しには、引退記念興行の賭け金の総額が記されていた。目玉が飛び出る額だった。
「興行規約では、薬物が発覚した剣闘士の試合は戦績無効、賭けは全部不成立。掛け金は――胴元預かり、です」
「つまり、リタさんが『薬物中毒死』なら」
「引退興行の払い戻し義務が、まるごと消えます。ついでに没収した双剣を売れば、二重儲け」
死人の名誉一つで、金貨の山が動く。反吐が出る算術だった。
そして卓の上には、今日から俺が預かることになった二振りの剣がある。
左右で長さの違う、使い込まれた双剣。革巻きの柄には、持ち主の掌の形が刻み込まれている。まぎれもない、生涯の愛用品。
その右の一振りが――夜目にも分かるほど、微かに燐光を帯び始めていた。
『……嬢ちゃんの剣が、呼んでやがる』
グレンが低く呟いた。
『気張れよ、坊主。今度のは、ろくでもねえ夜を視ることになるぜ』
「……明日、視る」
俺は白手袋のまま、剣に向かって一礼した。
――聞かせてもらうぞ、双剣の。あんたの最後の夜を。




