一の太刀
果たし合いまでの丸一日、俺はフィーネに扱かれ続けた。
ヴァンの剣の癖、間合いの取り方、初太刀の入り。彼女は覚えている限りの全部を、俺の体に叩き込もうとした。グレンは横から『腰が高え』『目線で足が読まれてる』と好き放題に吠えた。日暮れには、指が箸を掴めなくなっていた。
それでも、二人とも最後まで「勝てる」とは一度も言わなかった。
そして――夜明け。
王都闘技場の砂の上に、俺は立っていた。
観客のいない円形の観客席が、朝焼けで赤く染まっている。柵の外にはフィーネとカヤ、それに「絶対見逃しません」と徹夜で張り込んでいたピナ。数万人を飲み込む器に、人は五人。……俺にしか視えない大男を入れて、六人か。
「興行主のやつ、剣聖様の一言で真っ青になって鍵を開けたよ」と、カヤが柵の外で肩をすくめた。強い者には巻かれ、弱い者からは毟る。ザイロス・グーデという男の輪郭が、また一つはっきりした。
「来たか」
砂の中央で、黒鎧が待っていた。
「逃げるという賢い選択肢もあったが」
「逃げたら、あなたはもう口を利いてくれないでしょう。……聞きたいことがあるんです、あなたに」
「勝ち残ったらな」
ヴァンは大剣を抜いた。刃引きなしの、本身だった。鍔の意匠に、見覚えがある。フィーネの家で毎日手入れをしている剣――勇者の剣と、対になる紋様だ。
俺は腰の剣に手を掛けた。昨夜、フィーネが差し出したものだ。――兄さんの剣で、行ってください。飾り気のない鋼の柄が、掌に馴染む。
それを見た瞬間、ヴァンの目が、初めて揺れた。
「……その剣で来るか。上等だ」
結論から言えば、俺は十一回、死んだ。
一合目で剣を弾かれ、二合目で足を払われ、三合目には喉元に切っ先が止まっていた。仕切り直して、また三合。また二合。踏み込みの気配すら見えない。フィーネに叩き込まれた癖読みも、グレンの助言も、届く前に終わる。
何より恐ろしいのは、あの大剣の速さだった。俺の剣の倍は重いはずの鉄塊が、小太刀のように翻る。柵の外からフィーネの「右!」という声が飛ぶが、聞こえた時にはもう、右をやられている。
『言ったろ、受けに回られたら百年でも崩せねえって』
グレンの声が渋い。ヴァンは汗一つかいていない。それどころか――目に見えて、白けていった。
「その程度か」
十二本目の前に、剣聖は初めて苛立ちを見せた。
「型の輪郭だけは、確かにあいつに似ている。だが中身が空だ。頭で思い出しながら振る剣に、銘もクソもあるか。……次で終いだ。骨の二、三本は覚悟しろ」
考えて、振っている。その通りだった。
審問所でも、路地でも、審査の場でも、型は勝手に体から出た。なのに今日は、勝とうとして、当てようとして、俺の頭が邪魔をする。
『坊主』
グレンが、静かに言った。
『お前の悪い癖だ。背負ってるものを、手前の腕で振り回そうとしてやがる。……いいか、一回だけでいい。全部、預けてみろ』
預ける。
俺は目を閉じて、息を吐いた。勝ち筋も、癖読みも、何もかも頭から捨てて――胸の奥の、あの温かい重みだけに触れた。
――なあ、相棒。あんたの友達が、あんたの剣を見たいそうだ。
その時。
耳の奥で、風のような何かが、確かに囁いた気がした。声にはならない。言葉にもならない。ただ、委ねろ、と。
ヴァンが、踏み込んできた。
世界がゆっくりになる。
視えたのは、剣筋じゃなかった。もっと手前――重心の沈み、爪先の向き、呼吸の切れ目。フィーネの癖読みでも、俺の目でもない。この読み筋を、俺は知らない。だが「俺の中の誰か」は、五年間、この男の隣で同じ敵を見続けていた。
体が、勝手に動いた。
半歩、斜め前へ。振り下ろされる大剣の内側、たった一つの隙間へ、最短の突きを――一の太刀。
鋼の音は、しなかった。
代わりに、布の裂ける音がした。
「……ッ」
ヴァンの大剣は、俺の首筋の寸前で止まっている。そして俺の剣先は、彼の左の籠手の上、裂けた袖口に触れていた。相打ちですらない。あと半瞬遅ければ俺の首が飛んでいた。それでも――届いた。
だがヴァンは、袖なんか見ていなかった。
彼は目を見開いたまま、俺の――俺の背後を、見ていた。
「…………アルヴィス」
振り返らなくても分かる。青白い燐光が、俺の背に立っている。第三者にも視える、死者の残像。剣聖の目に今、五年前に死んだ相棒の姿が、構えごと重なって視えている。
「今のは……確かに、視えた。お前の後ろに、あいつが立った。あいつの読みで、あいつの入りで、あいつの太刀だった」
大剣が、下ろされた。
「……おい、墓守。それは、なんだ。あいつは――そこに、いるのか」
初めて、剣聖の声が揺れた。俺は答えを探して、やめた。この人に、半端な嘘は通じない。
「分かりません。ただ、預かってるんです。剣も、型も。……たぶん、それ以外も」
ヴァンは長いこと俺を睨み、それから、ふいと目を逸らした。
「いや……いい。これ以上は聞かん。聞けば、今の一合の意味が変わっちまう気がする」
長い、長い沈黙のあと、ヴァン・シュトラールは深く息を吐き、剣を鞘に納めた。
「……型は、本物だ」
「なら」
「だが、貴様のものじゃない」
剣聖の目は、もう殺気ではなかった。もっと厄介なもの――教師の目だった。
「借り物を借り物のまま振り回して、たまたま一度だけ嵌った。それだけだ。あいつの型を背負う気なら、貴様の背骨で背負え。今のままじゃ、いつか型に潰されるぞ」
型に、潰される。その言葉は妙に冷たく、腹の底に落ちた。
「……忠告として、受け取っておきます」
「それと、約束だ。聞きたいことがあると言ったな。――いいだろう。ただし俺も、貴様の『仕事』とやらを見せてもらう。リタの件、貴様が何をどこまで掘るのか。この目でな」
監視付きの協力。上等だ。壁が、初めてこちら側に半歩動いた。
「手始めに、昼の審査会は俺も傍聴する。ザイロスとかいう小物が、リタの剣をどう転がす気か……俺の目の前で、やらせてみるといい」
柵の外に戻ると、カヤが呆然と、フィーネは半泣きで俺を迎えた。そして、ピナは。
速記帳を胸に抱きしめたまま、震えていた。
「……視ました。今度こそ、この目で、はっきり」
丸眼鏡の奥の目が、まっすぐ俺を射抜いた。
「青白い光の、剣士の姿。あなたの後ろに立った、あの人影――あれ、勇者様ですよね」
夜明けの闘技場に、記者の声だけが、やけに大きく響いた。




